呉 智英
略歴
1946年名古屋市生まれ。早稲田大学法学部卒。評論家。京都精華大学客員教授。日本マンガ学会会長。マンガ、サブカルチャーから社会思想まで幅広く批評を展開。論語講座「以費塾」主催(1988年~)。
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評論
マンガ功成って名詩は枯れた?
呉 智英
十九世紀から二十世紀へ移行する前に、既に日本は大きな変動を体験していた。明治維新(一八六八年)である。二十世紀が始まるのは、明治も三十四年になってからである。維新後とはいうものの、十九世紀明治の三十年間ほどは、まだ江戸期を色濃く引きずっていた。十九世紀と二十世紀では、同じ明治でもかなり大きなちがいがある。
われわれが普段使う現代文は、十九世紀明治ではまだ完全なものとなっていない。幸田露伴の『五重塔』(一八九一年)も尾崎紅葉の『金色夜叉』(一八九七年)も文語体で書かれているし、文語体以外の小説を残さなかった樋口一葉は、十九世紀のうちに没している。
口語体の確立者だとされる二葉亭四迷でさえ、一八八七年の『浮雲』ではまだ少し文語的であり、一九〇七年『平凡』でようやく完全な口語体となった。夏目漱石の『猫』も島崎藤村の『破戒』も、二十世紀明治の作品である。
こうして二十世紀初めに成立した口語的な現代文は、新聞や論文の文章にも小説の文章にも適していた。文字通りの散文として、形式にとらわれず、ものごとを分析的にも娯楽的にも内省的にも書くことができた。
口語的な現代文の汎用性は、文章を書くこと読むことの特権性を解体していった。明治のころには知識人の読むべきものではないとされた小説が、大正期にはしだいに知識青年に愛読されるようになり、二十世紀半ばの敗戦後は、小説が学生や知識人に大きな影響を与えるようになった。
しかし、その小説も一九六〇年代末期には、半世紀ほど手にしていた知的特権性を失っていった。代わって、マンガが学生たちを中心によく読まれるようになる。風刺を目的としたマンガは、既に江戸期以前からあったが、現代では、マンガといえば、形式の自由なストーリーマンガやギャグマンガを指すまでになった。
これを可能にしたのは、手塚治虫の出現であった。一九四七年の『新宝島』は、そのコマ展開の躍動感によって多くの少年たちを魅了し、彼らをマンガ青年に育て上げた。この青年たちが一九六〇年代以降のマンガ興隆の中核的作家となった。
手塚治虫のマンガは、それまでのマンガに比べ、絵もコマの展開もいわば散文的であり口語的であった。彼は後に、自分のマンガの絵は象形文字のような一種の記号であると述べたが、確かに現代マンガは絵画でありながら文章に近い性格を持っている。手塚は現代マンガの文法・文体を確立したのである。
一九八〇年代に入ると、新人の小説家にマンガの影響が顕著に観察されるようになった。また、石ノ森章太郎『マンガ・日本経済入門』をはじめとする啓蒙的な解説マンガがブームになり、出版界の一角に定着していった。企業や行政機関でも情報メディアとしてマンガを多用することがふえてきた。
一九九〇年代には、マンガの頭打ち感が取り沙汰されるようになるが、それでも他の出版分野に比べればマンガは圧倒的に強く、凋落というより成熟期に入ったというべきだろう。九〇年代を通して、マンガの年間売り上げは概数で、単行本が二千五百億円、雑誌が三千五百億円、計六千億円である。これは国民一人あたりで五千円になる。途上国の人たちの月収分を、日本国民一人一人が一年間にマンガに費やしているわけだ。
今世紀初めの近代的口語文の成立は、形を変えてマンガの繁栄にまでつながってゆくが、この逆の衰亡の道をたどっているのが現代詩である。
十九世紀明治に、それまでは知識人必須の教養とされてきた漢詩に代わるものとして登場した新体詩は、漢詩ほど厳格な規則には貫かれていなかったけれど、五七調や七五調で書かれ、中に使われる漢語もリズム感をととのえ、口誦するにふさわしいものであった。
二十世紀明治に登場する蒲原有明や蒲田泣菫においても、この事情は大きくは変わらないし、その後の世代である北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、三好達治の詩も、定型を捨てた自由律であるが、広く愛誦されるものであった。
しかし、戦後、様子は一変する。最も親しみやすいと言われる田村隆一や石原吉郎でさえ、だれもがその詩を口ずさむという状況からは遠く、現代詩は晦渋と自閉のぬかるみの中で立ち往生している。かなり名の売れた詩人の詩集の発行部数が数百部というのは、マンガの百分の一から千分の一ということだ。
その一方で、歌謡曲の名曲は三十年でも五十年でも歌い継がれ、レコードもCDとなって新しい世代に継承されてゆく。それらはおおむね言葉も類型的で、リズムも伝統的な定型詩に近い。それが広く長く親しまれるのだ。
しかし、その歌謡曲も、中途半端な英語や英語風に発音される日本語の入ったアイドル歌謡曲に圧され、新しい名曲は出てこない。そのアイドル歌謡曲は半年もすれば忘れられてしまう。
名詩はおろか名曲も生まれないまま、二十世紀は終わろうとしている。
二十世紀の表現は、大衆の時代にふさわしく、口語的で散文的なものだけれど、マンガと詩とでは大きく差がついた。その原因が単なる偶然であることを、詩のために祈りたい。
掲載紙:東京新聞(夕刊)
(2000年12月20日)
# 主催者から
「私は世界で嫌われる」と「危険な思想家」を読む ビートたけし vs 呉智英
佐藤 幹夫
世に溜飲本なるものがあるという(色モノともいう)。両氏が「下町の悪ガキ」や「封建主義者」を仮構することで、確かに風よけにはなる。グタグタと言われたら「うるせーっ、俺は封建主義者だ、下町の悪ガキだー」と返すことで取り合えずは済むし、批判が更に弾みになる点では強みであった。しかし読後、溜飲本として敬して(?)遠ざけられてしまうことは逆に弱点でもあった。それなら両氏ともに挑発を専らとするだけの暴論家かと言えば、私はそうは思わない。民主主義や平等理念が隠し持つグロテスクさに対して、人一倍鋭敏な感度をもっていること。差別という問題の本質を直観的に見抜いていること。それが理由である。そしてこのことが、両氏に共通する最も重要な特質だと考える。
呉智英は今回の『危険な思想家』において、真正面から人権イデオロギーと差別の問題に相渡っている。民主主義をイデオロギーとする国家では差別を隠蔽すること。差別/平等と対置されることは現代の知のパラダイムにであり、その意味で実は差別論は知識人論であること。そしてきわめ付けは「目指せ、差別もある明るい社会」という、そのスジを逆撫でする一章なのだが、旧著において、あの連合赤軍事件の衝撃から民主主義に対する疑問が始まったのだと書いてあるのを目に留めたとき、私は深く頷いた。
一方のビートたけしは、ギャグのネタにしながら、自身の生活史とお笑い芸人としての下積みがいかに人間扱いされないものだったかという体験を(つまり被差別的扱いを受けたということだ)決して手放してはいない。分際を知れ、とは彼の得意とするフレーズなのだが、これは「差別もある明るい社会」に通じていく感性だろう。彼の手になる『あの夏、いちばん静かな海。』を観た者ならば、人権主義者からは生まれ得ない聾者たちの世界を描いて見せたことは知っているはずである。(ただし『私は世界で嫌われる』では、タイトルの「嫌われる」が持っていた微妙な揺れが機能しなくなっている。映画監督としてのステイタスが上昇し、毒舌が意に反して、いつの間にか認知されつつあることなどによるだろうか)
最後にどうしても触れておきたいことがある。ビートたけしの言説が、思想となる一歩手前の所で立ち止まっているように見えることだ。これはなぜなのだろうか。彼のエッセイは基本的に語り、喋りである。どれほど現代社会の困難な課題や知の先端の問題に触れようとも、それは語り=漫談であり、面白さもパワーもそのことによる。彼自身、漫談で結構、思想として裃を着せられることは真っ平だと言うだろう。私も「書き言葉」の優位性などを言いたいのではない。ビートたけしが知的になればなるほど、語りが「思想」として立ち上がるためには何が必要かという問題を逆に照射してくると感じられるのだ。思想は書き言葉によってしか為されないのか。『危険な思想家』にはあって『私は世界で嫌われる』にはないもの、それは何か。
同じ言葉の営みであっても、書き言葉と語りとはまったく性格の異なるものであり、そこにはたぶん想像以上の深い溝がある。それはまだうまく解かれてはいない。
掲載誌:樹が陣営 19号
(1999年4月20日)
