中島義道
略歴
1946年福岡生まれ。東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程、ウィーン大学大学院基礎総合科学哲学博士課程修了。元電気通信大学教授。
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新聞・雑誌から
ごまかさず「問い」を生きる
中島 義道
「どうせ死んでしまうのだから、何をしても虚しい!」「人生はすべて偶然に左右される!」「何が正しいのかわからない!」「生きる理由がわからない!」と呟いているきみへ。きみの呟きは恐ろしく正しい。人類が地上に出現して以来、われわれはこう問い続けてきたし、しかも誰も最終的な答えを見いだせなかった。
きみが二十代の若者であるとしよう。よく知っているだろう?世の大人たちは、一致団結してきみからこの問いを奪おうと企んでいる。「そんなこと考えたって仕方ないじゃないか」「もっと前向きのことをしろよ」というように。あるいは、「よく考えてごらん、生きる理由はあるはずだよ。きみはよく考えないから、そんなことを言っているんだ」「どうせ死んでしまうからこそ、一瞬一瞬を大事に生きるべきではないかなあ」というように。あるいは「その前に、おまえいったい努力したのか」「ずいぶん結構な身分だよなあ。誰がおまえを養っているんだ?」というように、あるいは・・・。なぜ、大人たちはこうもこういう「正しい」問いを嫌うのであろうか。躍起になって潰そうとするのであろうか。
なぜなら、自分たちにとっても、本当は「気になる」問いだからであり、その問いにからめ取られている奴がまわりにいると目障りだからである。生きるとは、こうした問いをグイと腹の底に沈めてしまうことだ、と確信した男女がきみの周囲にうじゃうじゃいる。彼らは有用な問いなら受け付けてくれる。年金問題をどうすべきか。だが、どんなに年金を受けても、死んでしまうのだ。その後、宇宙の終焉まできみは死に続けるのだ。生きるチャンスは(たぶん)もうないのである。これは、年金問題より何千倍も重要な問いではなかろうか。少子化で日本の人口は今後減り続けるという。だが、日本が滅亡するより、きみ自身が滅亡するほうが何万倍も切実なことではないのか。
きみが、本当にごまかしなく問い続けるなら、「その問いを生きる」という一つの回答がきみの前に開けてくる。すなわち哲学者になることである。哲学者とは、哲学研究者のことではない。両者が重なることはあるが、一応別であり、大学で哲学を教えている教授が、自分の問いを生きていないことは稀ではない。逆に、一片の哲学的知識も持たずに、すでに哲学的に生きている人もいる。それを判定する方法を教えよう。もしきみが、いまの困難な状況を脱して、この世の幸福を手に入れたら、先の問いを放棄してしまう(しまえる)なら、きみは哲学者ではない。これに対して、この世で何が与えられようとも「その問いを生きる」なら、きみは哲学者である。
哲学者とは、たとえこの世のすべての価値が与えられても、「どうせ死んでしまう、しかも何もかもわからないままに」ということに深く落胆し、その限り何が与えられても虚しいと思うような、大層要求の高い人種だからである。たかがローマ皇帝になったくらいでは、シェークスピアになったくらいでは、ロスチャイルドになったくらいでは、満足しないのだ。もうじき死んでしまうこと、その後、(たぶん)二度と生まれてこないこと、しかも、ほとんど何も知らずに死ななければならないこと、その後、宇宙には人類について何の記憶も残らないこと、それでも宇宙はいつまでもいつまでも存続するだろうこと・・・この枠組みの「うちで」何が与えられようと虚しいのだ。もしきみが、同じような感受性を持っているのなら、哲学をしたらいいと思う。だが、この枠組みの「うちで」幸福になりたい気持ちがわずかにでもあるなら、哲学はしないほうがいい。
哲学は幸福を諦めるところから開始される。あの(『旧約聖書』のヨブ記の主人公の)ヨブのように、まわりの人々が何と言おうと、「神(ここでは抽象的にとらえてもらいたい)に向かって」直接問いかけるところから開始される。あらゆる幸福が—ヨブのように—きみから飛び去っていっても、きみが問い続けるのなら、親が反対しようと、乞食になろうと、狂気に陥ろうと、哲学をするがいい。ということは、もしそうでなければ、きみは幸福を求めるべきであって、哲学をしないほうがいいということだ。そして、普通の大人になり、「どうせ死んでしまうのだから、何をしても虚しい」という若者のうめき声を、ありとあらゆる仕方で潰しつけるがいい。それが、きみにぴったりした生き方なのだから。
(掲載紙:西日本新聞 2004年7月20日付)
哲学者というならず者がいる
哲学者というならず者がいる
中島 義道
よく言われることであるが、「哲学」という訳語は、適切ではないように思う。これは、ギリシャ語の《philos(愛) = sophia(知)》の訳語であるが、明治の知識人が「愛知」ではなく「哲学」(「哲」とは「明らかに語る」という意味)を選んだ理由は、わからないこともない。彼らが《philosophia》にまず期待したのは、国家の中枢を担う若者たちに必要な「洋才」であり、とすると、ヨーロッパで当時講談哲学を牛耳っていた新カント派こそ、それにふさわしいものであった。この学派に限定する限り《philosophia》とは、根源的な学問としての「哲学」なのである。だから、例えば東大文学部の哲学関係の学科はカントの三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)に正確に対応して、哲学科、倫理学科、美学科に別れている。つまり、「哲学」は誤訳ではなく《philosophia》の一側面を訳しただけなのである。
では、「愛知」には「哲学」によっては表わせないどんな側面があるのだろうか?それは、何よりも「知を愛する」という態度である。「愛する」とは、好きでたまらないという意味ではない。「渇望する」という意味、「恋い焦がれる」という意味である。つまり、これはソクラテスによってはっきりした形を得たのだが、真理を他の何かのため(例えば社会的な力を得るため、金持ちになるため、幸福になるため)に求めるのではなく、真理であるゆえに求めるという態度である。
しかも、その真理は、始めから体系的な学問として、決まっているものではない。すべて自分で問いつづけ、点検しつづけるという行為、態度、生き方のうちにはじめて現われる。しかも、各個人の思い込みではない。個人が普遍的な知を「恋い焦がれる」という構造のうちに、立ち現われるのである。
だから、とくに《philosophos「愛知者=哲学者」(以下「哲学者」をこの意味で使う)》には、倫理的な態度が要求される。真理を求める営みそれ自体の真実性が求められるからである。哲学者は、みずから真理であると信ずることを、常識や因習や権威に屈服することなく、そのまま語らねばならないということだ。それが、哲学者を哲学者たらしめる定義的特長である。だが、この要請はなんと過酷なことであろうか?
ソクラテスの死刑判決の罪状は、神々を認めないことと青年たちを堕落させたことだとされているが、何より彼は——因習や権威を配慮せずに——真理を真理であるゆえに求めるなどというフトドキ千万なことを実践してしまったがゆえに、死刑にならざるをえなかったのだ。
だが、すべての哲学者に同じことを要求はできない。(プラトンの描く)ソクラテスは特別であり、だからこそ偉大なのである。だが、現実のソクラテスはかならずしもこうではなかっただろうし、大多数の哲学者は、けっして真理を真理ゆえに求めてはいない。いつでも真理のために死ぬ覚悟をしてはいない。だから、二重の意味で「ならず者」である。彼は「普通の世界」に住めない者だから「ならず者」である。しかも、かれはみずからの理念に合致しえないから「ならず者」である。現実的な意味における《philosophieren(哲学すること)》とは、こうした二重の「ならず者」である自分を自覚しながら、責めながら生きることであると思う。ソクラテスのように、自分の信念のために死ねたら、どんなにすっきりするであろう。善良な市民のように、社会の因習に安住できれば、どんなにラクであろう。だが、どちらの道もふさがれている。哲学者は、どちらの道からも外れた「ならず者」として生きるよりほかない。その居心地の悪い地点にずっと留まるほかない。
いつまでも抽象的なレベルで語っても真意を伝えるのは難しいから、一つの実例として、最近勃発した朝日新聞との「戦い」を紹介してみよう。毎週土曜日の夕刊の文化欄に「ピンホール」と題して、五、六人の書き手によるエッセイを一面全体にぐるりと囲むように載せている。そこに何か書いてくださいと言われたのが七月のはじめであった。担当は、前にも数度会ったことのあるFさんである。彼女は、私の本をずいぶんよく読んでいて、私の「偏屈ぶり」に関心を寄せ、そのうえで「応援しますから、何でも自由に書いてください」ということであった。そこで、最近、女子高校生のスカートの中を手鏡で覗き込んだとして現行犯逮捕されたU教授の事件、およびそのマスコミ報道をテーマにして書いた。
私の言いたいことは「正常であること」と「法に適っていること」(裏返して言えば、「異常であること」と「法に反していること」)は異なる、という単純なことに尽きる。スカートの中を覗き込むことは、単に法に反しているだけであって、とくに異常なこととは思えない、それを異常者扱いにするのは、中世の魔女裁判と同じ暴力である、と書いた。ついでに「強姦もとくに異常ではない」と筆を滑らせたところ(そう心から確信している)、案の定すぐにFさんからクレームがついた。そればかりではない。彼女からは、そのほかにじつに表現の細部に渡って、注文がついた。「魔女裁判であるから」は断定しすぎだから、「魔女裁判という面もありうるから」にできませんか?先生は魔女裁判の専門家ではないのに、どういう資料に基づいてそう言えるのですか?というように。ええい、もう面倒くさい、降りてやれ、といったん啖呵を切ったが、思いなおして、彼女の指摘にそってすべてを書きあらためた。次にその原稿の全文を記載する。
U教授が、女子高校生のスカートの中を覗こうとして、現行犯で捕まった。彼の場合、有名人であり、しかもいかにも清潔そうな紳士であったから、「見せしめ」としての効果は十分あったであろう。いまや、痴漢冤罪が多発する(らしい)満員電車の中は、ますます男たちを震えあがらせている。
一人の男の「些細な」行為に、数十年にわたる膨大な数の女たちの苦しみがのしかかる。いままで唇を噛んで我慢してきたが、もう泣き寝入りはしない、泣き寝入りはさせない、と。
こういうとき、取り調べははじめから容疑者を「魔女」と決めてかかる現代の魔女裁判になりかねないのである。
それはそれとして、わからないこともない。すべからく「革命」はやりすぎなければならないのだから。
だが、どうしても変だと思うのは、こうした性的な事件が起こると、スカートの中を覗くことが、あたかも恐るべき「異常な」行為であるかのように言い立てることである。
でも、そうかなあ?
風呂場を覗き込む行為も、酔って女性の胸や尻に触る行為も、生物体としてのヒト(オス)にとって、とくに不自然な行為とは思えない。
ただ、こうした「自然な」行為が現代社会では(なぜか)激しく非難されるのである。単なる「制度」が自然とみなされる瞬間に、その制度からの逸脱者は(単に不正をはたらいた者ではなく)異常者とみなされてしまう。これは人類の歴史始まって以来、面々と続く暴力である。
だから、すべてが変だとわかっていても、異常者扱いされるのが厭なら、みんなと口裏を合わせて、性犯罪者を「ヘンタイ!」と叫んで社会から葬り去りましょう。そうしないと、あなたに危険が及びます。
ちょうど魔女裁判で「魔女」と叫んで唾を吐き掛けない者は、気がつくと魔女にされてしまったように。
幸いFさんとの電話のやり取りで、これで行きましょう、というところまで進み、掲載前日(七月十六日金曜日)の午後四時にゲラが出た。何度も読み直し、われながらしごく「まとも」なことを書いたと思った。だが、同じ日の深夜、突然Fさんから電話がかかってくる。「すみません。あの原稿はボツになりました」。デスクまでOKを出しながら、重役審査で最終的にボツになったとのこと。犯罪を肯定するようなものは載せられない、ということだそうだ。「朝日新聞こそ、善良な市民の代表なんですね」という彼女の言葉もうつろに響く。とはいえ、こうした仕打ちに対して、私のうちでそれほど怒りは膨らまなかった。まさに私が書いたように「これは人類の歴史始まって以来、綿々と続く暴力」だからである。そして、私もまた決して潔癖ではなく、同じほど汚れているからである。異端審問所におけるガリレオのように。
コペルニクスの地動説を支持するガリレオの天文学理論が異端の疑いありとして、彼はローマの異端審問所に呼び出された。信仰は科学的真理より優位に立つからである。現に地球が太陽の周りを回っていることはどうでもいいことだ。それより、そうした真理が教会の権威の維持にとって有害であることが問題なのである。このガリレオの異端審問を、中世の遺物のように考えるのは、大間違いである。いまや、教会の代わりにジャーナリズムという巨大な権力が、真理よりも重要な理念(人権? 自由? 生命?)をよりどころにして日々異端審問を続行している。その背後には膨大な数の善良な市民がうごめいていることもまったく同じ構造である。「地球が回っている」というガリレオの信念が揺らぐことはなかったが、彼は教会に対して自説の誤りを認めた。それは、彼が弱いからであり、卑怯であるから、すなわち「ならず者」の典型だからである。
そして彼は、裁判所を出るとき「それでも地球は回っている」とぽつりと語った(と言われる)。地球の公転は、審問所で彼が取り消すことによって揺らぐレベルの事柄ではないことを彼は知っていたからである。さらに、聖職者たちも地球が回っていることをうすうす信じながらも、政策上(立場上)認められないというホンネがわかっていたからかもしれない。
私が朝日新聞の仕打ちに対して、大きな憤りを覚えなかったことも、これに似ている。あの原稿をボツにした重役だって、あの程度のことは知っているはずだ。ただ、教会と同じく、朝日新聞の政策上載せるわけにはいかないだけなのだ。新聞の社会的役割とは、けっしてナマの真理を伝えるものではない。さまざまな事象を取捨選択して、みずからの信ずる価値や理念の実現を目指すこと、その理念に反する事実は、断固排除することである。私とて、朝日新聞に「外国人はこの国から出て行け」とか「障害者はおとなしく家にいろ」と書いて(これらは私の信念ではないが)そのまま載るとは夢にも思っていないのだから、そして、身の危険を感じたらさっさと引っ込めるのだから、同じ穴のムジナである。
ジャーナリズムの世界だけではない。われわれがいきていくうえで、じつは真理はそれほど重きを置かれていない。真理より、生きることや幸福になることのほうがはるかに重要なのである。真理は時に必要だが、生きることや幸福になることを妨げないかぎりである。その通りなのだから、小学生のころよりそうはっきり教え込むべきだと思う。
そして、哲学者とは、困ったことに、こうした世の中の「正しい」態度についていけない者、こうした空気に居心地の悪さを覚える者なのである。しかも、大部分の哲学者は、殺されたくもなく、追放されたくない腰砕けなのだ。私も、ガリレオのように、火炙りになりそうになったら、あわてて「地球は回っていない」と答えるであろう。それにもかかわらず、地球が回っていることも確信しているであろう。ずるく、さもしく、弱く、卑怯な人間であり、それを自認しながら変えることがないであろう。まさに文字通りの意味で「ならず者」なのである。
(掲載誌:新潮45 2004年10月号)
受講生からの感想
講義 「世間」に哲学は必要か (第4期講座)
*「女の哲学者」について女性のコメントが欲しかった様子でしたが、私(一応オンナ)としては「男ってこの話題になると実に楽しそうなので、別にそれでいいんじゃないですか」という感想です。男は女よりエライと思わないと男はどうもボッキしないらしいです。体は成熟、顔は幼くてボンヤリした表情、の女性のハダカ写真が世を席巻してます。これから、女性がいろいろなところに進出を果たすとドンドン不能なオトコがふえて人類は滅びるかもしれませんが仕方ないですね。
どうも女には本当のことをいってもらいたくないのが男でしょう。「ちがう、女はこうなんだよ」と30数年、わりと知的職業に従事する夫に言い続けても団塊の世代のオトコは男尊女卑が身に染み付いているのでワカラナイというかワカリタクない、ようです。
「哲学」は全然人間(人類)をシアワセにしないけれど(中島センセーと同じで私も自分がシアワセになってはいけない、みたいな所があるのでいいのですが)人間ってつくづくバカだなーと思わせてくれるから、好きです。
* 1「私がいる世界」2「私と他者がいる世界」3「私がいなくて他者がいる世界」と3分類にした場合、3のケースはあり得ない。私がいて、他者が存在するのに、私が存在しなければ同時に他者も存在しない。では何故、道徳は他者を優先させるのか。私が考えることはすべて自己であり、結果的に自己愛となるのではないか。私が考える真実性というテーマは個々に人間がいるだけ存在するのではないか。そこに道徳は本当にあるのでしょうか。
*
今日のカントの話は、大部わかりやすかったと思います(前2回に比べて)。
小浜氏との対話も、小浜氏が一般の人が考えることの時間論として聞けて、中島氏との対話がおもしろかった。
休み時間の喫煙で、教室の中がタバコのにおいでくるしい。タバコはもっと教室からずっと離してほしい。
* 人間学アカデミーのことを知ったのは朝日新聞の〈黒板〉の小さな記事ででした。その少し前におなじ朝日新聞の文化欄に中島氏のカントの勉強会の記事が載っていて、なんて面白いひとが世の中にはいるのだろうと興味をもっていました。この中島氏の名前を人間学アカデミーの講師陣の中に見つけ、さっそく受講手続きをしました。
予想にたがわず面白いひとだったというのが第一の感想です(失礼な言い方をお許しください)。学問と行動がこれほど密接に結びついた方はそうざらにはいないのではないかと思います。又、私はカントは一行も読んだことはありませんが、中島氏の潔癖性というか、腕白小僧(またまた失礼)のような「わかりませーん」、「無意味ですねー」というストレートなものの言い方に、あくまで直感的にですが、生きたカント哲学をみたような気がしました。
さて第三回目の講義で、なぜ女の哲学者がいないのか、それは生物学的な理由に拠るのではないか、という自説を展開されました。男は生物体として欠陥がある、それゆえ生物体としての自分の存在への疑問、不安、戸惑い等につきまとわれ、そこから哲学の必要性が生じる。しかし女は生物体として充足している、それゆえ生物体としての自分の存在への疑問、不安、戸惑い等につきまとわれなくて済む、そこから哲学の必要性は生じない、というようなことを中島氏は言われはしませんでしたが、私は勝手にそういうことだろうと推測しました。
そういうことであれば基本的に私も中島氏の説に賛成ですが、たぶんこれは我田引水だろうと思います。
が、そういうことだと強引に仮定して、この先、私は私で進みます(失礼)。
たとえば、なぜおまえは生まれてそこに存在しているのか、と問われ満足に答えられたら門の中に入れてもらえるとしたら、女ならきちんとした答があります。種の保存のため。これで十分です。ところが男の場合、答はありません。男が生まれてそこに存在していなくてはならない理由は、つきつめれば何もナシ。精子のコレクションのワンセットもあればその本体の存在理由は簡単に吹っ飛ぶわけです。門の中に入れてもらうために男は、無用なものを有用にする論の発明をしなくてはならず、そもそも存在とはなんぞや、から考えなくてはならないハメになる。そこから時間論へと進んでいき…という具合に、哲学の中枢部分の論考をしていくことになる。『なぜ女の哲学者がいないのか』にある、〈哲学は生物としての人間にとっては随分不自然な営みである〉、〈哲学はワイセツに思われる…〉は、このようにして考えていくと、しごくすんなりと理解できます。哲学は、人間の自然な営みからすれば〈無用〉なものであり、〈無用〉はワイセツと親戚関係にあるというのも、そもそもの哲学の発端が、いわば錬金術のようなものなのだから、納得できるという気がします。
話を替えます。
印象に残った中島氏の言葉が二つかあります。三回目の講義でした。小浜氏とのトークバトル(?)でしみじみと、「わたしは普通になるのがいやなんですよ、安定したくないのですよ。安定したらおしまいですからね」これがひとつ。それから「わたしは自分の言葉を鍛えているのですよ。正確な言葉を使いたいのですよ」
あの滑らかで湧き出るような弁舌は、生来のものももちろんあるのだろうと思いますが、一方普段の鍛錬の成果でもあるのだなと、これを聞いて納得できたと思いました。
又、日常生活を送るなかで、妥協せずひとつひとつきちんと考え、批判するところは批判し、わからないところはわからないと認め、そうやって生きた哲学をしておられることをも示唆する言葉なんだな、と思いました。
教室の〈出店〉で氏のご著書『カントの時間論』と『時間と自由』を購入しました。前者を先にいま読んでいますが、こんなにカントがすらすらわかっていいのかしら(わかったような気になってというべきかもしれません)、と驚いています。まるで数学の証明問題を解くような贅肉を削ぎ落とした文体で、とてもわかりやすいです。又カントがこんなに現代的だったとは意外です。
三回の講義によって世界がひろがり厚みが増したような錯覚に陥っています。錯覚を現実にするために、これから自分なりの方法で事後処理をするつもりです。
中島先生、ありがとうございました。
* 中島先生に会えてよかった。本を集めてたので、安く買えてよかった。自分しかいない、という言葉はわかっていたが、意味がわからなかったが、少しわかるようになった。
時間論も同様。
何も知らないまま、もうすぐ死んでしまうという思いが強まってよかった。
* 哲学の核心(存在論、自我論等)を扱うことを第5期以降もご検討ください。
* 中島義道はイヤな奴だ!
でも大ファンです。(←こう言うと、中島さんは嫌がるでしょうが)
* 哲学についてはじめて学習しました。今後もこの世界に首をつっこみたいと思っています。
*学生時代に一般教養で「哲学」を受講して以来ですし、基礎知識も少ないので、中島さんの講義は難しく多くは理解できなかったような気がします。
結局“哲学”は人間にとって必要なのでしょうか。
日々、社会の中で生活していくには、深く追求してしまうとかえって生きにくくなってしまうのでは。
でも、また著書を読んでみたいです。
* トークの司会者、自分の考えられることに、講師の話をとりまとめようとしているようで、他の感覚を持った方だったら、もっと講師の核に近づけたのではないかと思う。
* 時間/自己など、関心のある話が出て、面白かった。
半分わかったような、分からない話でしたが、今後、中島氏の本を読む時によいように思った。
小浜氏とのトークショウはとてもいいです。
受講生から寄せられた感想です
