佐伯啓思
略歴
1949年奈良県生まれ。東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻博士課程修了。現在、京都大学大学院教授。
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他ホームページの主な記事を紹介
- 紹介記事 読売年鑑2000
(読売新聞社ホームページ) - 書評 『隠された思考――市場経済のメタフィジックス』(筑摩書房)
(サントリー文化財団ホームページ) - 論文 首都機能移転を日本のアイデンティティ確認の契機に
(国土交通省ホームページ)
新聞等掲載評論
構造改革の見直し迫るテロ
佐伯 啓思
あるアメリカの政治学者が、「九・一一」を境にして、ものの見方、論じ方が一変してしまったと書いていたが、この言い方には少々誇張が含まれているとしても、しかし決してまちがっているわけではない。そしてそのことは経済にも当てはまる。もっと言えば、われわれは、今、小泉氏が唱えている「構造改革」の基本的な考えを根本から見直さなければならない。
九月十一日のアメリカ中枢部へのテロリズムはいくつかの教訓をわれわれに与えたが、その一つは、金融・情報中心のグローバル経済の持つ脆弱性ということであった。世界貿易センター・ビルの破壊が、端的に金融・情報のグローバル経済へ向けた象徴的な攻撃であったという点からもわかるように、テロリストは、金融・情報の中枢を破壊することによってアメリカを中心とするグローバル経済に大きな打撃を与えうると考え、また現実に大きな動揺を与えることに成功した。すでに景気後退に入りつつあったアメリカ経済の動揺、および世界的な金融市場の混乱は、一九三〇年代の恐慌をも想起させるにたる世界同時不況をももたらしかねないのである。
ところでフランシス・フクヤマは、事件後、数日たって発表されたある論説の中で、これはアメリカにとって「よいレッスン」になったという。九〇年代のアメリカは、金融・情報グローバリズムという「虚の経済」に浮かれ、誰もが「アメリカ」のことに関心をもつことなく、自己利益の追求に奔走していた。しかし、金融・情報によっては国を守れないことをわれわれは思い知らされた、というのである。
金融・情報による利得機会の創出という「虚の経済」ではなく、製造業の生産基盤や生活の確かな基盤という「実の経済」を整える方向へ、さらには愛国心や社会的な価値、規範を再建する方向へと向かうであろう、ということである。つまり経済というものについての意識の大転換が生じるというのである。
無論、今回のテロによって、金融・情報のグローバル経済という歴史的な趨勢が逆転することはありえない。しかし、それに対する深刻な反省はありうるし、また、そうでなければならない。明らかに、テロは九十年代の金融・情報グローバリズムの脆弱性を暴き出し、その主導国家であったアメリカ経済を痛撃したのである。
改めて述べておきたいのだが、テロリストは、世界の自由や民主主義一般を攻撃したわけではない。あくまでアメリカという特定の国を攻撃したのである。しかし、そのことが世界経済全体に対して大きな動揺を与えるのである。
さてこのことは、今日の日本にとっても決して無関係な事態ではない。まず第一に、日本は、日米安保条約による同盟関係に従い、アメリカ側につくことによってテロリストにとっての敵対国となった。つまり戦争の当事者国となったわけで、このことは今後、長期にわたってテロという目に見えない恐怖(テラー)に脅かされることを意味している。それも細菌テロからサイバー・テロにいたる「見えない敵」という予測不能なリスクを日常生活の内に内蔵したのであり、この正体不明の不気味さは長期的にも経済に大きな影響を及ぼすものと思われる。
そして第二に、この事態は「構造改革」の前提となっている基本的な考え方にも大きな疑問を投げつけたことになる。九十年代以降の「構造改革」の基本的な想定は、金融・情報中心の産業構造に転換し、グローバルな市場競争への適応を目指すものであった。しかし、明らかに、今日、その金融・情報グローバリズムがはらむ大きなリスクに世界は晒されているのである。 重要なことは、むしろ、製造業の基盤を確かなものとし、グローバル経済の不安定性や社会真理の動揺から国民経済を守ることである。同時に、生活の基盤を安定化し、顔の見えるコミュニティや集団の持つ社会的信頼性を再建することである。そのために、政府はいまこそ新たな公共計画を策定して、長期的に社会を安定化するための公共資金を管理、使用すべきである。自己責任の名のもとにグローバルな市場へ個人を晒すことが真の構造改革ではない。グローバルな市場がもたらす予測不能なリスクや、テロが持つ潜在的な「恐怖」から、将来に向けて社会生活の安定した基礎をいかに構築するかこそが「構造改革」の課題でなければならない。
(掲載紙:産経新聞 2001年10月24日)
「ものを考える」こと
佐伯 啓思
四月に入学してきた新入生たちも、約一カ月たち、五月の連休になって一息ついているころだろう。少し前までの大学は、実質上の授業開始は連休あけだったが、近年は、授業開始が早まり、連休になるころは、すでにひとりあたりの導入的な話は終わっている。
とりわけ少人数の講義の場合、導入は、何よりまず、学生に刺激を与えることだし、一般的な問題意識をもってもらうことだ。そこで、私の場合、いささか挑発的に、現代の大きな問題を取り上げたり、それを、西欧思想の流れを鳥瞰する中で論じたりする。今年は、昨年の九・一一テロを取り上げ、その背後にある、西欧近代的なものと宗教的原理主義の対立などという話をした。
相当、挑発的なことを話し、また、これもかなり挑発的な思想史の展望を示しているはずなのだが、どうも学生の反応が鈍い。話に退屈しているのではない。興味がもてないわけでもない。むしろ、皆、熱心に聞き入っている。しかし、それに対する「反応」がないのである。ひと昔前なら、すぐに何人かの学生が、何か言い返してきたものだ。こちらの「挑発」にすぐに応じたものなのである。
ところで、先日、ある高校の先生が私の研究室を訪ねてくださった。この先生は、論文入試の指導に、ある決意をもって臨まれておられるようで、論文入試の指導をきっかけにして、ものを考えたり、現代社会の出来事に対して自分の見方をできるように高校生を誘導したい、ということである。つまり、大学の講義や、社会で起きていることと、高校生の意識や関心の橋渡しをしたいということだ。
これは大変、結構なことである。十六、十七歳あたりの高校生の時期というのは、型にはまった教科書や受験参考書をひたすら覚えるというより、まさに、社会や人生やらに対する関心に目を開き、それにどう向きあうかを考えようとする時期であろう。手探りで、社会や生に向き合いはじめるのである。そして、古典をはじめとする本や思想、それに友人、先輩や先生との語らいは、その大きな手助けになるはずである。
この先生の意図は、論文試験の指導を通して、生徒に、その手助けを提供しようというものだ。うまくやれば、論文試験の指導は、そういう可能性をもっているという。しかし、実際には、論文試験でさえ、「よい答案を書く方法」、「バランスよく自分の意見を述べる方法」などという受験テクニックに解消されかねない、という。
学校教育の見直しが進んでおり、文部科学省の「ゆとり教育」か、その結果、「学力低下」が生じるか、といった議論がなされている。このいずれにも言い分はあるが、確かなことは、例えば、高校生レベルでは、社会や人生についての、自分の問題やものの見方を作ることを可能にしなければならない、そしてそのためには、本を読んだり、人と話(議論)をする力を、すでに初等教育の段階から養う必要があるということだ。そこにこそ教育の要が置かれねばならないであろう。
(掲載紙:京都新聞 夕刊 2002年5月2日)
サッカーと国家の起源
佐伯 啓思
私はこれまでサッカーにはほとんど関心がなかったのだが、それでも今回のワールドカップは、結構テレビ中継を楽しんだ。ワールドカップがなぜ人々を魅了するのか、その理由ははっきりしている。そこに「国」があるからである。実際、それぞれのサッカー・チームの中にその国の個性を見ることさえできるという意味では、サッカーは国民文化の一つの表出といえるかもしれない。だが、それにしてもどうして、人々はサッカーの中の「国」にかくも熱くなるのだろうか。
スペインの哲学者のオルテガが、いまから九十年ほど前に、「スポーツとしての国家の起源」という論文を書いていて、面白いことを述べている。
かつて人類が遊牧段階から脱して、定住し社会を作りだすときに、何が起こったか。若者が中心になり、獲物を獲得し、他の集団と争うという、いわば戦闘集団ができたであろう。この戦闘する集団こそが最初の社会であった。ここでは、集団の規律化が生み出され、身体的訓練が重要な課題となり、若者たちは家族から離れて、指揮官のもとに統率されて集団的生活を行なっただろう。そして、この獲物を獲得するための戦う集団の行動が様式化されたものがスポーツであり、また国家だというのがオルテガの述べているところである。国家は、スポーツから始まった、もしくはスポーツと同じ起源をもっているというのだ。
このオルテガ説を借りてくると、サッカーと「国」の結びつきはよく理解できる。サッカーはその言葉の通り、人々を「結びつける(アソシエイト)」ものであり、そのルールや競技としての特性の単純な明快さにおいて、確かに、スポーツの起源を指し示しているように見える。獲物を狙う(ゴールを狙う)ために集団を作り、集団間の競争、闘争の中で素早く矢を放つ(シュートする)。この集団では、個人の力量がものをいうと共に、それぞれの役割を果たすための訓練された組織力が重要なのである。
ところでオルテガは次のように言っている。集団の獲物獲得の対象は、他の集団の女性でもあっただろう。だから女性は、こうした戦闘集団とは対立する存在だ。つまり、この種のスポーツや国家というものに対しては冷ややかだ、と。
もしそうだとすると、このワールドカップにおける女性たちの熱狂はどう考えればよいのだろう。ただ、サッカーの本場であるヨーロッパでは、概してサッカーは男性的スポーツだと見なされていて、女性はさして関心を持たないようである。とすれば、この女性の熱狂は日本や韓国独特のものなのか。あるいは、オルテガに従えば、「スポーツとしての国家の起源」というそもそもの起源にわれわれが全く無頓着なためなのか、それども……女性たちも本質的に「スポーツとしての国家」に熱狂するものなのか。サッカーはいずれにせよ、「国家」についてさまざまなことを考えさせてくれることは間違いない。
(掲載紙:京都新聞 夕刊 2002年6月28日)
今こそ新たな公共投資創出を
佐伯 啓思
小泉政権の新内閣によって、不良債権処理が加速されるという期待が生まれ、それを受けて株価が急落している。メディアや評論家は、不良債権処理がデフレに拍車をかけるからだというもっともらしい説明をしているが、その彼らが、少し前までは、景気が回復せずデフレが進行するのは政府の不良債権処理が進まないからだ、と説明していたのだから、何とも奇妙かつ無責任な話である。このめまぐるしく変節する場当たり的な世論と、それに動かされる政府の政策こそが大きな混乱をもたらしている。
「不良」企業を整理し、場合によっては銀行を国有化するという「不良債権処理」が経済にデフレ圧力を加えることは明らかなことであった。そしてデフレがさらに不良債権を生み出すとすれば、不良債権処理は一層困難となる。経済がこの悪循環に陥れば、デフレ・スパイラルが待っている。恐るべき事態というほかない。
従って、とるべき道は二つしかない。不良債権処理と同時に景気浮揚政策を取るか、もしくは、不良債権処理以降の成長を期待して当分はデフレに耐えるか、である。かつての小渕政権のもとで行われたことは、公的資金投入による金融機関の安定化(救済)と財政発動による景気刺激政策であった。いうまでもなく小渕政権の内需拡大政策は、橋本政権の「構造改革」による金融システムの危機を回避するための政策であった。今回も似たような状況である。
だが今日、政府は、基本的には、「痛みに耐える」という後者の道を選択している。もし構造改革の断行によって長期的な成長がほぼ確実に期待されるならば、これも一つの見識であり、確かに「痛みに耐える」べき時もある。しかし、今はそうではあるまい。少なくとも、「痛みのあと」の確実な未来像が描きだされたことははい。つまり、後者の選択はあまりに危険が高すぎる。
不良債権処理が引き起こすデフレに対して、政府が積極的に景気浮揚政策を取れない理由は明瞭で、要するに「構造改革」を掲げているからだ。ところが「構造改革」は、当初より、決して立証されていない二つの前提に基づいていた。一つは、問題はミクロ(個々の企業や産業分野)にあり、マクロ(経済全体)という視点は無意味だというもの。もう一つは、問題は供給側(企業の生産性)にあって、需要側(消費意欲や投資意欲)ではないというもの。かくして、マクロの立場に立つ需要創出政策であるケインズ的財政政策は否定されてきた。構造改革は、個々の企業や産業の生産性の向上を図るもので、「不良」企業の整理もそのためである。
だが、まず第一に、個々の企業や産業について必要なことと、国民生活がかかわる経済全体について必要なことは異なっている。個々の企業や産業でリストラが必要だとしても、それを国民経済全体で行うわけにはいかない。国民経済全体(マクロ)においては、ミクロのリストラから生じる問題(デフレや失業)を解消する政策こそが必要なのである。第二に、供給側の生産性を高めることはよいとしても、今日のデフレ状況は明らかに需要(消費と投資)の減退を示している。したがって、民間投資の刺激につながる公共投資を避ける理由はない。ところが、政府は、少し前までは、相対価格の変動はあるがデフレ(物価水準の低落)ではないとしてデフレ(需給ギャップ)を否定してきたのである。
なぜこういうことになったのか。答えは明瞭だ。小泉政権にとって、「構造改革」とは、もっぱら公共事業の削減、特殊法人の解体を意味していたからである。もっといえば、公共事業や特殊法人問題に、利権政治や派閥政治の弊害を見るという政治闘争の意味合いが濃厚だったからである。今ごろになって一気に不良債権の処理を加速化するのなら、なぜ、それを今まで放置していたのか、という問題はやはり残るであろう。
確かに従来型の予算バラマキ的公共投資は無意味である。だが、今後大きく社会転換を起こし、人口減少、低成長社会へ移行する日本の将来を考えれば、今から、準備態勢を整えることが不可欠だ。そのためのインフラストラクチャーを整備しなければならず、これは新たな領域への公共投資を必要とするであろう。政府は、早急に、将来の社会転換を睨んだ公共的なプランニングを行い、それに基づいた公共投資と民間活動の誘導を行うべきである。
(掲載紙:産経新聞 2002年10月16日)
受講生からの感想
講義 ポスト・ニヒリズム社会の展望 (第8期講座)
* モノを考える為のエッセンスが全体にちりばめられており、非常に刺激的でした。
[S.さんの感想]
講義 人間にとって「おカネ」とは何か (第4期講座)
* プラザ合意や日米構造協議という言葉はニュースでしか聞いたことがなかったのですが、先生の御講義で目からウロコが落ちたようにその実態がよくわかりました。郵政民営化も多くの人々が不安を感じているのが、世論調査などにも表れていますが、その不安の中心が、グローバル経済に巻き込まれてしまう不安感だというのが、よく分かりました。ケインズ理論の核心についても、とてもわかりやすかったです。
[芳賀真理さんの感想]
*本当に久しぶりに学生の気分になって講義を聞けて楽しく思いました。
テーマが広く、多岐に渡るので、もう少し絞って3回分にしてもよかったかと思います。例えば、「父と子の抑圧と資本主義の心理」だけでも3回分行けてしまうような気もしました。
佐伯先生の人柄が感じられて、近い席で聞けたのもよかった。先生の説は一字で言えば、より「人間的な経済」を再構築する必要があるということだと思います。それは、私も感じましたが、日本的共同体主義(というか会社主義)の弊害もたくさんあるので、どう具体的に手を打つかは試行錯誤していくしかないのでしょう。
[織田孝一さんの感想]
* 第2回では佐伯氏の今の社会に対する危機意識の持ち方(子どもの凶悪犯罪等)に違和感を覚えたが、第3回の話は了解できた。
将来の日本の経済社会の構想については賛成できる。
今の仕事(知的障害者の更生施設)に関連して言うと「開放的な自足的生活サイクル」というようなキーワードが浮かんできた。多謝。
[村松旦さんの感想]
*人間にとって「おカネ」とは何か’ それがあると便利なもの、と氏はひとつの答を出された。ただ便利というだけでおカネとは存在している、とも。とすると人間にとっておカネとはなぜ存在するのか不明だけれども、とりあえず便利だから習慣的に存在しており、習慣的に使用しているもの、ということになるのだろうか。この利便性というおカネの一側面だけが病的に肥大して今日の経済世界を、数値と記号の無味乾燥な非人間的な世界にしているのだろうか?
又、これもひとつの答を受講生が見つける手がかりのためにということだろうが、貨幣と言葉の類似性を氏は説かれた。
貨幣とは、言葉という言葉に対応するものである。個々のモノ、たとえば机とか椅子とか猫とか犬とかという言葉に対応して実際に在るモノ、そういうモノとの対応関係をもった言葉とは、言葉という言葉はちがう。対応するモノがない。具体的に何も指し示していない。ということは生活空間からはみだしているということ。純粋なシンボル性だけでそれは成り立っているということ。この点で言葉という言葉と、貨幣は対応していると氏は説かれた。
この純粋なシンボル性が言葉に於いてもそうだが貨幣に於いても、生活空間とはちがう原理で働く‘経済’の世界をつくらせることになる、と。なるほどこの観点からだったら、今日の経済世界を、数値と記号の無味乾燥な非人間的な世界にしていることの説明がつくと私はなんとなく説得されたような気がした。
そしてまた貨幣とは、生活空間に於いてはさして重要な役割を果たさないものと氏は言われた。この場合の貨幣とはあくまで10円とか100円とかの具体的なモノとしての貨幣ではなく、貨幣という抽象のことである。ならば、貨幣とは重要な役割を果たさないどころか、まるっきり関係ないものと言ってもいいのでは? 少なくとも10円とか、100円とかの具体的なモノとしての貨幣だけに執着して、あくせく生きている私のような者には…
だがここでハタと思うのであるが、この10円、100円というおカネは、それでもあの無味乾燥な非人間的な‘経済’の世界と、どこかで繋がっているのではないのだろうか? なぜって、雲の上のあそこでも10円はやっぱり10円なのだろうし、100円は100円なのだろうから。そうだ私はこの繋がりをこそ、以前から知りたい知りたいと思っていたのだ。何億ものおカネを右から左へ動かしているあのひとたちは、自分たちは何をしているのかわかっているのだろうか? 何億というかおカネを扱いながら、そのカネの実像を一度でも見たことがあるのだろうか? とずうっと疑っていたのだ。
この点について氏は明確な答を出してくれていない。ただ、こんな意味のことを言われただけだった。「名誉でもないし地位でもないし彼ら自身がよくわからない何かによって突き動かされているんでしょうね、ただ先端を走るということだけに彼らのやっていることは意味があるんですよ。」世界経済も日本経済も未来は危ういと最近よく言われているが、先端を走る人がそういうことなら、ほんとうに未来は危うい、と受講後私はつくづく思った。
人間にとって「おカネ」とは何か’ 私にとって「おカネ」とは何か? と言い換えれば、すくなくともこれだけは言える。三回の講義は、貨幣というものの自明性が私の中で徐々に崩されていく過程だったと。
ところで氏の講義スタイルは独特である。俯きかげんに黒板のまえを行きつ戻りつしながら、言葉を選ぶように喋り、そして頻繁に黒板に向かわれる。私はいつしか既視感に囚われていた。これはいつかどこかで見たことのある光景だと。講義が終わってから思い出した。大学の数学の授業である。
[K.Hさんの感想]
受講生から寄せられた感想です
