櫻田 淳
略歴
1965年生まれ。北海道大学を経て、東京大学大学院法学政治研究科修了。現在、東洋学園大学准教授。
「政策提言型知識人」と自らを位置付け、外交、安全保障問題、政治、福祉、差別問題に、精力的な論陣を張る。「古武士」と、ある批評家が彼を評すように、冷徹なリアリストでありつつロマンチストでもある。
詳細は櫻田淳ブログ「雪斎の随想録」参照。
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新聞掲載論文
「文明」と「野蛮」の間
櫻田 淳
去る日本時間九月十一日夜、幾多の人々は、人類という種族が行い得る「野蛮」の極致を眼の当たりにすることになった。イスラム原理主義の影響下にあるとされる十数名のテロリスト集団は、四機の米国国内線旅客機を乗っ取った上で、ニューヨークにあるワールド・トレード・センターの二棟の建物とワシントンにある米国国防総省の建物を標的にして突っ込み、一部の報道によれば一万人にも迫るという数の行方不明者・犠牲者を出した。ジョージ・ブッシュ米国大統領は、「これは戦争行為だ」と言明した。米国議会上下両院は、「テロリズムに対する宣戦布告」を決議した。
国際社会の大勢もまた、この蛮行を厳しく非難している。国連安全保障理事会は、事件翌日、緊急理事会を開き、件の自爆テロ行為を「国際社会の平和と安全に対する脅威」として強く非難する決議を全会一致で採択した。そして、北大西洋条約機構理事会は、米国の要請を前提として、機構の発足後初めて、集団的自衛権を発動することで合意した。また、各国首脳の発言の中で私の眼を引いたのは、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相の発言であった。シュレーダー首相は、連邦議会で演説し、件の自爆テロ行為を「文明市民社会に対する宣戦布告である」と非難し、「米国との無制限の連帯」を表明した。また、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、この蛮行を「文明に対する挑戦」と位置付け、「国際社会の共同対処」を呼び掛けていた。この事件を契機に、「テロリズムの否認」は、国際社会の「共通了解」として一層、明確に定着するようになったようである。
ところで、現在、我が国では、この事件に対する対応を「対米同盟関係」の枠組で論じる雰囲気が濃厚である。しかも、具体的な対応に際しては、福田康夫官房長官が発言したように、「日本は日本国憲法の範囲の枠内で行動する」という余計な留保が、付いている。しかしながら、件の自爆テロが「文明市民社会に対する宣戦布告」、あるいは「文明に対する挑戦」であるという認識は、我が国においても広く共有されるべきであろう。事実、この事件が問い掛けているのは、われわれが、「文明」、あるいは「国家」という枠組を護る意志を備えているかということである。そもそも、「国家」という枠組は、魔女狩りや異端審問などに明け暮れた中世末期の凄まじい時代の後、人々が築いた「文明の所産」であった。昔日、我が国において「万国公法」と呼ばれた諸々の国際法規も、侵略戦争の否認という原則も、「国家」の枠組を前提にして成り立った「文明の所産」である。テロリズムとは、そのような「文明の所産」を根底から破壊する行為である故に、容認され得ないのである。
戦後、久しい間、我が国の幾多の人々は、「文明の所産」としての「国家」の意味を理解しようとしなかった。我が国にとって、過去十年は、「国家」に絡む「文明の所産」を守る姿勢が、本格的に問われた歳月であった。湾岸戦争は、サダム・フセインによる明々白々な侵略行為を前にして、どのように我が国が対応するかが問われた最初の試金石であった。我が国は、実に百三十億ドルに上る資金提供を多国籍軍に対して行なったけれども、それは、正当に評価されるものとはならなかった。我が国の対応は諸外国に対して、「文明の所産」を守ろうという意志を鮮明に伝えるものではなかったのである。湾岸戦争時の我が国の対応に与えられた「一九九一年の敗戦」という評は、その意味では、誠に至当なものであろう。
然るに、目下、テロリズムの明々白々な挑戦を前にしても、「憲法の制約」が当然のように言及される我が国の現状は、私には、件の自爆テロ行為以上の戦慄を覚えさせる。それは、我が国が徹底して臆病にして、自閉的かつ利己的な存在であるという印象を世界中に再び植え付けかねないからである。大体、現行憲法典第九条が禁止しているのは、我が国が他の「国家」との紛争を解決する手段として「国家」に対して一方的に武力を行使することである。とすれば、我が国が「国家」ならざるテロリスト集団に対して武力を行使しても、何ら不都合は生じないはずである。我が国は、そのようなことを憲法典に関する新たな政府解釈として導き出してでも、「文明の所産」を護る営みに積極的に乗り出すべきではないのか。そうでなければ、「一九九一年の敗戦」が、再現されるだけではないのであろうか。
半世紀余り前、我が国の戦時指導者達は、極東国際軍事裁判に際して、「文明の裁き」の名の下に処断された。今日でも、その「文明の裁き」の意味を問う議論が、続けられている。しかし、今後の我が国は、その「文明」をこそ、護る側に立たなければならない。そして、その「文明」を護ろうという意志によってこそ、われわれは、戦後という時代の呪縛から脱することができる。「戦争」といえば「先の大戦」を想起する習性に囚われている間に、世界史の流れは、かくも急激に進んでいたのである。
続・「文明の所産」護る営みに加われ
櫻田 淳
「米国同時多発自爆テロ事件」に関連して、米国主導の「近代主権国家」連合によるテロリズム封じ込めの動きが、加速している。事件の首魁とされる人物を隠匿しているらしいアフガニスタンのタリバン政権は、アラブ首長国連邦から外交関係断絶を突き付けられ、この流れには、サウディ・アラビアまでもが続いた。我が国でも、去る九月十九日夜、小泉純一郎総理は、「対米支援七項目声明」を発表した。これは、当座の対応を示したものとしては妥当である。この上は、臨時国家において必要な法整備を迅速にして着実に断行し、声明を画餅の類に終わらせないことが、大事であろう。
ところで、去る九月十五日付本欄において、私は、この自爆テロ事以降の我が国の対応が、「文明の所産」を護る営みに加わる意志を占っていると論じた。私は、最近、米国の歴史学者バーバラ・タックマンが著した『遠き鏡—凄惨なる十四世紀』という書を読んでいた。タックマンは、我が国では、『八月の砲声』、『愚行の世界史』、あるいは『誇り高き塔』といった書で知られている。十四世紀の欧州大陸では、中葉の黒死病の流行で人口の三分の一が失われた他、百年戦争の戦乱に伴う荒廃が続き、魔女狩りや異端審問が横行した。タックマンによれば、十四世紀とは、疫病、戦争、重税、略奪、悪政、暴動、そして教会内の分裂に彩られ、「奇怪にして大々的な災禍と逆境」に痛め付けられた歳月だったのである、そして、「凄惨なる十四世紀」の後で、人々は、「近代主権国家」という枠組を築き、その枠組を前提にして、戦争の作法、使節の待遇といった点で諸々の国際法規を築き上げてきた。それが、現在、政治、経済その他の領域で築かれている諸々の国際秩序の原型になっている。私が「文明の所産」の言葉で意味しようとするのは、そうした国際秩序の体系である。一般的にいえば、諸々の国々の多様な国益が互いに相克するのが、国際社会の現実であるけれども、そのような国益の相克もまた、「文明の所産」という名の「土俵」の上でこそ、行なわれるものである。テロリズムは、「土俵」を破壊するものであるが故に、その害悪は、一掃されなければならないのである。
無論、このような「文明の所産」が元来、西洋近代の歳月の中で醸成されたのであれば、その護持に我が国が執着すべき特段の理由はないという意見も、あるだろう。しかし、明治以降の我が国は、「文明の所産」を生真面目なまでに吸収し、尊重しようとしてきた。戦後、幾多のイスラム諸国もまた、国際連合その他の国際機構への加盟に際して、そのような「文明の所産」を受容したはずである。今や、「文明の所産」は、人類共通の資産である。その点、テロリズムの撲滅という「文明の所産」を護る営みを「文明の衝突」の文脈で理解しようという議論は、愚かの極みと断じざるを得ない。
然るに、目下、テロリスト集団に対する報復を主導しようとする米国への協力に関連して、我が国では、連立与党の一部からですらも、「何でも手掛ける訳にはいかない」という声が出始めているし、対米協力の中身が明らかになるにつれて、実質的な協力を渋る雰囲気が頭を擡げている。確かに、現下の対応が専ら米国の都合に付き合うという文脈で解されるならば、そのような逡巡は、反米気分に浸りたい人々からは納得されるのかもしれない。しかし、我が国が相対しているのは、米国の都合ではなく、テロリズムが起こした「文明の所産」の破壊である。本来は、「何でも手掛ける」というのが、我が国の示すべき姿勢ではないのか。「グローバリゼーション」の趨勢が「近代主権国家」の枠組に動揺を与えている昨今、テロリズムの跳梁を許せば、「凄惨なる十四世紀」が再来しないとも限らない。少なくとも、そのような感覚は、われわれには大事なのではないか。
その意味では、「近代主権国家」の範型とも呼ぶべき米国が、現下の対テロ撲滅作戦を当初、「無限の正義」、あるいは「究極の裁き」と名付けていたのは、誠に示唆深い。テロリズムの撲滅という「文明の所産」を護る営みにおいて、手加減といったものは、無用であるからである。それとも、そのような営みに際しても、われわれは、限定的にして抑制的な態度を平然と取るつもりなのであろうか。
柳条湖から真珠湾へ 日独伊三国同盟締結の時 上
櫻田 淳
昭和十五年九月二十七日、ベルリンでは、来栖三郎駐独大使、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相、イタリアのガレアッツォ・チアノ外相の三国代表が参集し、日独伊三国同盟条約が調印された。現在の時点から振り返る限り、三国同盟の樹立は、戦前の我が国の犯した対外政策上の失敗の最たるものと評価されている。この同盟の樹立は、我が国が政治体制の上でも奉じる価値の上でもナチス・ドイツと同種の国家であるという印象を与えることになった。その印象は、対米交渉に決定的な支障を来すものであったし、戦後においては、戦前という時代の評価を行なう際に多くの人々の思考を呪縛することになった。本来は異なる戦争を行なっていたはずの我が国とドイツが折りに触れて比較されるのは、この同盟の残した負債に他ならない。
しかし、私は、三国同盟の失敗の根源が、「その同盟によって何が出来るのか」という点を曖昧にさせていたことにあると考えている。振り返れば、近代以降、我が国は、日英同盟、日独伊三国同盟、あるいは日米同盟という三つの同盟を結んだ。そのような同盟の枠組の下、日露戦争時、英国は戦費調達の際の協力や情報の提供を我が国に対して行なったし、冷戦の期間中、米国は在日米軍や「核の傘」によって我が国に対する攻撃を抑止してきた。然るに、日独伊三国同盟の枠組で、我が国は、どのような便宜をドイツやイタリアに期待し、これらの国々から具体的に何が提供されたのであろうか。
無論、日独伊三国同盟における「同盟の論理」は、割合、単純である。同盟樹立を推進する陸軍は、ドイツを組むことによってソ連を挟んで牽制するという思惑を持っていた。そして、東南アジアへの進出を念頭に置き「二正面作戦」を避ける意味から同盟樹立に難色を示した海軍も、結局のところはソ連と衝突しないという条件で同盟樹立を承諾した。また、当時の外交を仕切った松岡洋右は、日独伊三国同盟にソ連を引き込む形で「四国同盟」を形成し、米国に対峙しようという構想を持っていた。第二次世界大戦開戦直後、欧州戦線で破竹の勢いを続けていたドイツと組むことによって、ソ連を牽制し米国を牽制するというのが、我が国にとっての「同盟の論理」であったわけである。
しかし、このような「同盟の論理」は、明らかに杜撰なものであった。特に米国を牽制するという論理は、「牽制して、然る後にどうするか」という構想に裏付けられなければ、単なる挑発にしかならない。そして、事実、三国同盟の樹立は、米国からは挑発と受け止められたのである。また、三国同盟の枠組で我が国がドイツやイタリアから具体的に何を提供されたのかということに関していえば、我が国が手に入れたのは。ほとんど皆無であった。欧州の戦場と太平洋の戦場とは余りにも遠く離れ過ぎていて、日独伊三国が具体的に何らかの便宜を互いに融通しようとしても、それは、思うに任せなかったであろう。結局、日独伊三国同盟は、対米関係を決定的に険悪化させたのみならず、ドイツやイタリアから実質的な便宜は何も提供されないという類の同盟に終わった。第二次世界大戦における「孤独な戦い」とは、一般に「バトル・オブ・ブリテン」のことを指すけれども、我が国の戦いもまた、「孤独な戦い」であったのである。
「恒常的な同盟は存在せず、恒常的な国益が存在するのみである」。このパーマーストン卿の言葉は、「同盟」の本質を言い表したものとして不朽の重みを持っている。この言葉に照らし合わせれば、日独伊三国同盟樹立当時の我が国は、「国益の認定」においても「同盟の論理」においても、多分に恣意的、情緒的であった。そして、現在においても、われわれは、自らの「国益の認定」や「同盟の論理」を観念的にして情緒的に考えてはいないであろうか。
産経新聞に掲載したものを改稿
柳条湖から真珠湾へ 日独伊三国同盟締結の時 下
櫻田 淳
日独伊三国同盟を巡る群像の中で最も際立った存在が、当時の外務大臣であった松岡洋右であるのは、疑いを容れない。三国同盟樹立に絡む松岡の軌跡は、人間における自負、誤算、あるいは失望を象徴的に描き出していて、誠に興味深い。
「こんなはずではなかった…」。この言葉は、私が見る限り、最も人間的な感情が凝縮されたものである。人々は、何時も何らかの「意図」を伴って様々なことを行う。しかし、それは、必ずしも期待された「結果」を生むわけではない。普通、「意図」と「結果」は乖離するものであり、それ故にこそ、人々は「こんなはずではなかった…」と嘆くのである。
松岡洋右は、日米開戦の報に接し、「三国同盟は僕一生の不覚であった」と慙愧の涙を流した。この言葉こそが、松岡にとっての「こんなはずではなかった…」である。松岡は、満州や中国を巡る問題に際して、対等な立場で米国と相対することを望んだ。三国同盟や日ソ中立条約の締結は、松岡にとっては、米国と対等な立場を確保するための方便に過ぎなかった。松岡は、ナチス・ドイツの人種主義には決して共感を持たなかったし、米国との対立を決定的にする政府部内の「南進」論には抵抗した。松岡自身の言葉によれば、「自分は米国と国交を調整することを終局の目的として奪闘した」のであった。
少なくとも対米戦争を望んでいなかった松岡の「意図」が裏切られたのは、松岡自身が終始、「自分の経験」に縛られ続けたことに拠っている。松岡は、十代前半から二十歳過ぎに至る多感な青春期を米国オレゴン州で過ごし、苦学の末に大学を卒業した。十年近くに及んだ滞米経験によって、松岡が手にしたものは、「米国と付き合うには、断固とした態度を示すことが大事である」という教訓であった。帰国後、外務官僚、満鉄総裁を歴任した松岡は、その滞米経験や米国大学卒業の経歴によって、「米国を肌で知る存在」と称することができたし、そのことに自負を感じてもいた。そして、そのような自負と若き日の滞米経験に得られた教訓を現実の対外政策に投射させた結果が、日独伊三国同盟であり日ソ中立条約であったわけである。
しかし、そのような松岡の姿勢には、「現場を知っている」という自負に裏打ちされた故の「視野の狭さ」があった。「力強さ」を尊重するのも、米国の国柄であるけれども、ナチス・ドイツのような体制を容認しない「道徳性」を持つのも、米国の国柄なのである。松岡の失敗は、若き日々の「自分の経験」に呪縛された結果、この米国の「道義性」の部分を直視することができず、日独伊三国にソ連を加えた四国の同盟によって米国に対峙するという「工学的な勢力均衡外交」に走ったことにある。米国の視点からは、我が国は、対独同盟樹立によって、「道徳的にいかがわしい存在」と化したし、そのことは、松岡の「意図」を実現する土壌を切り崩すものであったのである。私は、松岡が結局のところ、「自分の経験」を相対化するに足る広い意味での教養を持ち合わせていなかった人物であると解している。しかも、国際連盟脱退や三国同盟樹立に際して寄せられた国民の歓呼は、松岡を著しく誤解させたのではなかったか。第一級の教養人にして合理主義者であった昭和天皇が、松岡の姿勢に懐疑の眼差しを向けていたという挿話は、そうした松岡の限界を如実に物語っているのであろう。
日独伊三国同盟樹立から六十余年の歳月が経った今、「米国と付き合うには、断固とした態度を示すことが大事である」という松岡の粗雑な対米認識は、我が国の思潮の中に脈々と受け継がれているのではないか。我が国が自律した存在になる ためには米国に抗わなければならないという議論は、その典型である。しかし、そのような議論こそ、現下の我が国が真っ先に克服すべきものなのではないか。
産経新聞に掲載したものを改稿
初めて訪れた台湾で考えたこと・上
櫻田 淳
去る十一月二十八日から十二月二日までの四日に渉り、私は、初めて台湾の地を踏んだ。台湾立法院選挙・県市長選挙の投票日に合わせて金美齢女史が企画した「日本人百名訪問団」の中に混じって、台湾の選挙を観戦しようというのが、訪問の趣旨であった。選挙の結果は、既にメディアによって伝えられているので、このことについては、もはや多言を要すまい。戦後、久しく、台湾を支配してきた国民党は、遂に立法院第一党の座を民進党に明け渡した。李登輝前総統による総統直接選挙の実施、民進党・陳水扁候補の総統選出に続き、この立法院選挙での民進党の第一党躍進は、確かに、「国民党の優位」という一時代の終焉を画することになるのであろう。国民党寄りと伝えられる地元紙『聯合報』ですらも、「今後、民進党が主導権を確保した上での国民党との提携が模索される」という趣旨の観測記事を載せていた。
さて、台湾滞在中、私が強い印象を受けたのは、「台北二二八記念館」の訪問であった。この記念館が扱っている「二二八事件」は、久しい間、台湾現代史上の「暗黒面」とされ、その顛末は、一九八九年ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞した侯孝賢監督の傑作『悲情城市』によって、我が国でも知られるところとなった。一九四七年二月二十七日、闇煙草売りの女性に対する官憲の暴行は、国民党政府に対する本省人の反抗を激化させ、国民党政府は、その反抗を武力で鎮圧した。この事件では、台湾全土で一万名以上の人々が殺害され、少なくとも三万名に上る人々が死傷した。記念館には、事件で落命した人々の肖像が掲げられ、その経歴をみていると、「東京帝国大学法学部卒業」、「慶應義塾大学文学部卒業」といった字句が並ぶ。これらの人々は、当時の日本でも「選良」だった人々であるけれども、反抗運動を煽ったとされ徹底的に処断されたわけである。つまり、国民党政府は、「日本統治時代の人的資産」を潰すところから、台湾統治を始めたともいえる。
無論、このことは、過去半世紀の歳月が、国民党とともに大陸から渡来し外省人と呼ばれた人々にとっても、無条件の幸福を意味したわけでもない。これらの人々は、台湾社会の中では、どことなく「浮き上がった存在」として孤立感を味わいながら日々を過ごさなければならなかったからである。侯孝賢監督や楊徳昌監督のような外省人二世監督の作品には、そうした「外省人の苦悩」が関わっている。台湾の人々は、従来、内にあっては「本省人と外省人の対立と和解」という難題に取り組みつつ、外にあっては大陸・中国の巨大な影と対峙し自らの独立を守ってきたのである。
翻って、我が国では、過去半世紀の間、昔日の「同胞」であった本省人の立場は、余り顧みられることもなく、専ら国民党に傾斜した接触が続けられてきた。そして、一九七二年の断交以後、中国共産党政府の意向に過剰に配慮する余り、我が国は、台湾に対して冷淡な態度を取り続けてきた。たとえば、我が国は、総統時代の李登輝氏には、一九九四年の広島アジア大会、一九九五年のAPEC大阪会合、あるいは一九九七年の京都大学創立百周年式典に際して、門前払いを食らわせたし、今年四月に総統退任後の李氏が心臓病治療目的で来訪しようとした際にも、無意味な紛糾を来たした。しかし、先刻の立法院選挙の結果、「国民党の優位」の時代の終焉が明らかになった今、われわれは、対中配慮という文脈を離れて、「どのように台湾を遇するか」ということについて、見極めを新たにしてもよいであろう。
因みに、私は、昨年二月、「新『南洋』戦略論」(加筆の上、拙書『国家への意志』所収)と題された論文を発表し、沖縄から台湾を経て昔日には「南洋」と呼ばれた国々へと向かう「海上の道」が、今後の我が国の対外戦略上の「生命線」になると論じた。そして、今、私は、その「生命線」の「扇の要」として、台湾が位置付けられるであろうと考えている。地政学的な位置の重要性、日本統治時代に端を発する縁の深さ、「自由や民主主義」の価値を体現した政治・経済制度といった諸々の条件は、われわれに対して、台湾の持つ重みを実感させる。今後、われわれが早々に行なうべきは、その台湾の重みを与件として、自前の対外政策の構想に着手することである。
産経新聞に掲載
初めて訪れた台湾で考えたこと・下
櫻田 淳
昨日付の本欄において、あらためて、私は、沖縄から台湾を経て旧「南洋」諸国に至る「海上の道」が、今世紀の我が国の「生命線」になるであろうと指摘した。そして、私は、その「生命線」の「扇の要」として、台湾の占める位置が殊の外、重いものになると論じた。台湾では、昨年の総統選挙や先刻の立法院選挙の結果、行政府でも立法府でも国民党が主役の座を降りた。台湾は、今や完全に、政治制度と経済制度の双方において、我が国を含む自由主義諸国と同等の存在になったわけである。とすれば、このような国家が、国際社会の中で正当な待遇を与えられていない現状は、率直にいえば奇異である。私は、中国と台湾との間に無用な緊張が走る事態を望まないけれども、「自由主義国家・台湾」の現下の孤立が放置されることの不合理は、幾度でも強調することにする。現下、われわれとって、台湾の立場を考えることは、われわれ自身の奉じる「自由」の価値の意味を問うことでもあるのである。
それでは、われわれは、今後、どのように台湾を遇すればよいのであろうか。振り返れば、昨年四月、我が国は、太平洋に点在する十六のPIF(Pacific islands Forum、太平洋島嶼国フォーラム)加盟諸国・地域の首脳を東京に招き、「太平洋・島サミット」を開催した。目下、太平洋島嶼諸国の直面する課題は、海賊などへの対処、海上自由航行路の保全といったものに始まり、情報通信を軸にした産業の振興、人材の養成、海洋研究の推進、海洋資源の保護や管理、地球温暖化に伴う海面上昇への対処、あるいは海洋汚染の防止に至るまで、多岐に渉っている。私の当座の提案は、この「太平洋・島サミット」に際して、早ければ次回会合から、台湾をPIF加盟国に準じる存在として招待することである。台湾もまた、太平洋島嶼国に他ならないのであるであるから、我が国やPIF加盟諸国とは共通の難題に直面し、その難題への対処に取り組まざるを得ない。その点、PIF加盟諸国の大勢と比べれば、人口や経済規模において明らかに相応の実力を備えているはずの台湾が、これらの難題への取り組みに際して排除されているのは、我が国の国益のみならず、広く太平洋島嶼諸国の共同利益にも背馳する。われわれは、このような不利益の意味を適正に顧慮すべきであろう。
無論、このような私の提案には、様々な異論が示されよう。多分、中国共産党政府は、台湾が国際社会の中で「国家」として遇される一切の試みには強硬に反対するだろうし、中国政府の不興を買う一切の振る舞いを避ける習性が身に付いた感のある我が国政府もまた、敢えて火中の栗を拾うかのような対応には踏み切らないかもしれない。
しかし、島嶼国ならざる中国には、我が国や台湾、あるいはPIF加盟諸国のような島嶼国が共通して直面する様々な課題に対して責任を負うことは、本来ならば期待すべくもない。「責任を負えなければ、発言はできない」という人間の社会の公準に基づくならば、島嶼国の直面する難題に責任を負えない中国には、島嶼国の難題に容喙することはできない。われわれにとっては、台湾を「太平洋・島サミット」の討議の場に迎え入れても、然程の支障も生じないと見るべきなのではなかろうか。従来、我が国は、台湾との関係を中国との関係との従属変数として把握してきた。従って、我が国は、対中関係の文脈から離れたところで、どのような待遇を台湾それ自体に与えるかということについて、明確な方針を持たなかった。しかし、そのような台湾への遇し方で済まされる時代は、既に去っているのではないか。現在の台湾が、われわれにとって、「昔日の植民地」という追憶の対象というよりは、「自由主義国家」や「島嶼国家」といった国柄の相似に基づく協力の対象としての相貌を色濃くしているのであれば、それは、なおさらのことである。
結局のところは、われわれにとって、どのように台湾を遇するかを考えることは、「過去の我が国が、どのような国家であったか」を顧みるだけではなく、「今後の我が国が、どのような国家であろうとしているか」を構想する縁でもある。われわれは、台湾を台湾として遇する論理を持たなければならないのである。
産経新聞に掲載
主催者 櫻田論
<橋>を架ける思想の力
佐藤 幹夫
ところでもう一人、櫻田淳という批評家が『福祉の呪縛』という著作と共に登場した。著作を論じる際、必要以上に書き手の紹介に筆を走らせるのは、当の思想や著作に対して失礼ではないかという思いがあるが、やはり著者櫻田淳の紹介を欠かすことはできない。著者は出生時の脳性小児マヒにより身体に障害を持ち、進学を拒否され続けながらも養護学校の中学部から普通高校へ、そして北海道大、東大の大学院へと進み、現在、ある代議士の政策スタッフの一人となっている。
著作には櫻田氏の歩みが簡単に記されており、それを一読するかぎり、彼がそこで望んだことはきわめてまっとうである。身体が不自由である分、頭脳で勝負していくしかないと思い決め、そのために十分な教育を受けたいと彼は望んだ。むろんその願いを実現するためには、私などには測り知ることのできない努力を強いられなくてはならなかっただろう。そして彼が社会に出て何事かをなそうと思ったときにかならずぶち当たるバリアーが「前例がない」という一言だったという。
それにしても、何が「前例がない」のだろうか。ひとことで言うならば、ハンディを持つ者が社会において「障害者」としてではなく、「障害者/健常者」という言葉を必要としない存在として生きていくこと、それを当然のこととして認めることが、これまで前例がなかったのである。心身の諸器官に何らかの損傷を負うことと、「障害者」であると社会から刻印づけられることの間には、ある隔たりがある。
身体に何らかの能力を欠いていることで、そのまま「障害者」となるわけではない。「障害者」とは単に機能的能力的にハンディをもつだけの存在なのではなく、その存在一般が社会的に不利益を被っていると見なされ、絶対的弱者として庇護されなければならないという社会的視線が貫かれた存在、そのような視線のもとで、社会との関係が絶対化された存在のことである。その絶対化された関係に異義申し立てをしたとたん、「前例がない」という言葉が、分厚い壁として立ちふさがるのである。
櫻田氏は自身のハンディ引き受けつつ、障害者とか健常者などという区分けが意味をなさない場所で生きようと望んだ。しかし社会の制度や私たちの通念はそれを認めなかった。そして結局は体のよい厄介払いを食わせてきた。それがこれまでの実情であったろう。それでも粘り強く自身の主張を認めさせようとしてきたし、現在もその闘いを続けている。これが、櫻田淳という存在の足跡である。
ハンディをことさら優位に立たせようとする主張はこれまでも見られた。いや、人権や平等という誰にも反対できない理念の元で、いまやある趨勢をかたち作っている。そこでは障害を否定しないという出発点が、それ自体は正当な認識であるにもかかわらず、障害の肯定から一気に賛美へと飛躍してしまう。「障害を持つからこそ素晴らしい…」。しかしこの理念では、優位者と劣位者という対立構造そのものは変わらないし、本当に障害を持つことが素晴らしいのか、それはどこか転倒しているのではないか、という素朴でまっとうな疑念をもつ者に対して、そうした疑念を抱くこと自体が差別であるという抑圧になる。
むろん櫻田氏が示している理念は、こうしたものとは無縁である。氏は書く。
《しかし、率直にいえば、障害を持つ人々は、自らの障害に折り合いを付けながら、生きている。年老いた人々もまた、自らの老いを適切に受け容れながら、生きているということであろう。そうであるならば、障害を持とうと齢を重ねようと、それに関わらず社会の中で活動していけるための仕組みこそが大事になるはずである。この仕組みを作る努力は、「福祉」の呪縛の下、真面目に行なわれてこなかった。》
(『産経新聞』平成9年2月18日)
櫻田氏によれば、弱者として庇護されるという名目で、社会一般から切り離されること。その中でのみ生きざるを得ないこと。それが、これまで「福祉」という名のもとで行なわれてきた。そしてその結果、競争の機会均等と選択の自由という、市民社会のもとで最低限与えられて然るべきものさえ与えられてこなかったのであり、福祉(善意)=革新、自助努力(効率)=保守という分厚いバリアの中でのみ語られてきた、というのが、『福祉の呪縛』における著者の意義申し立てである。
福祉は本当に佳きものか。櫻田はそう問う。そして「自助努力支援型政策の構想」というサブタイトルの通り、障害をもつ人たちの自助努力のために社会がどのような支援をなすべきかについて具体的施策を提示していく。自助努力のための支援、そしてバリアフリー、これは従来の福祉政策とは区別される、と繰り返す。つまり櫻田氏は、介護され、保護されるための支援ではなく、自助努力のために社会にある物理的、制度的、そして心理的バリアをなくすよう支援してほしいと願う。選択することの自由と、競争するための機会の平等を求めることは、人として当然の要求のはずである、とする彼の主張は、多分まだまだ少数意見に違いない。
むろん私は、櫻田氏のようには生きられない多くの人々を知っている。就労の場はおろか、生活の場さえ不安を伴う彼らにとって、福祉のいっそうの充実こそ望まれることではないか、という反論があることも承知している。あるいはまた櫻田氏の示す施策は、平成七年度の『障害者白書』において示されたバリアフリーの提案を越えるものではない、という意見があることも知っている。
しかし、福祉=善という思考パターンの呪縛から解き放つ試みが、従来の福祉や人権問題や反差別という固定化された文脈を克服し、私たち多数の側の生に直接訴えてくる課題として語ろうとしていることの意義を、まずは認めたいと思うのだ。そのことを理解することによって、私たちはハンディを持つ人々の問題が「障害者問題」ではなく、人間という存在が抱えもつ或る普遍的な課題である、という地平に導かれていく。
これもまた橋を架ける思想である。しかもこの橋は少数の、これまで隔てられ続けてきた側から架けられた橋であり、それは画期的なことではないか、というのが『福祉の呪縛』を一読しての私の判断である。
ここまで村瀬学と櫻田淳という、二人の批評家の著作を見てきたのだが、ある対照が際立っていることにすでに気付かれたことと思う(村瀬氏への言及部分は割愛しています——佐藤註)。村瀬がきわめて平易に、ゆっくりと語りかけるような文体であることに比べ、櫻田氏は断定的で、訴えることにやや性急であるように見える。眼差しの高さも、村瀬氏は切り込みの糸口をできるだけ低いところにおこうとしているが、この点でも櫻田氏は対照をなしている。むろんこんな比較をすることで、彼を批判しようとしているのではない。
村瀬氏は多数者の側であり、櫻田氏は少数者の側である、このことがもたらす相違であるとひとまずは言える。つまり村瀬氏の思想は、多数者が少数の側に橋を架けようとする思想の一つ達成を示している。櫻田氏のほうは少数の側であることによって、意義申し立てという文体を余儀なくされながらも、その内実が、多数の側に対する告発的思考を乗り超えたものとして、やはりまた一つの到達点を示している。少数の側からの声が、このように開かれた理路を示すことは、率直に言って、希有なことだと言わなければならないのだ。
繰り返すが、多数者は少数者を賛美し、うたいあげる(灰谷健次郎!)、あるいは自主規制というかたちで見ぬふりをする。そして少数者は多数者を弾劾し、告発する。障害を持つ存在については、これまでそうした図式のなかで語られることが過半だったのである。それでは橋は架からない。ますます少数者(の問題)は切り離され、囲いこまれていくばかりだ。逆に言うならば、この図式を超え、両者の生にとって直接響くように(あるいはその契機となるように)語ることは思いのほか困難な営為だといえるのである。
ところで、私たちはすでに、「在日韓国人二世」という出自から思想的な出発をとげ、「差別」という課題に対して新しい曲面を開いてくれた竹田青嗣という批評家を持っている。竹田氏の差別論は、その欲望論と両輪のようにある。竹田氏の言うところをきわめて雑駁にまとめてみるならば、次のようになるだろうか。人間は「私とは何者であるか、何者であり得るか」ということを了解せずにはおかない欲望を持ち、その欲望が生を根拠づける。つまり自己中心的な存在であり、人生とは欲望のゲームである。
よって一方の側が他者に対して、善であれ、正しくあれ(差別はよくない、平等であるべきだ)と要請するだけでは、他者の欲望を否定し、ルサンチマンを生み出していくほかはない。ここにすでに差別が発生する根拠がある。従って他者(の欲望)の了解と、善きこと正しいこととが相互に了解されるための可能性は、どう条件づけられるか、そう問うべきだとされる。つまり差別はよくないと主張するだけはなく、差別について、あるいは差別の克服という課題について、両者の間でどのような了解が可能となるか、そう問うべきだというのが竹田差別論である。それが私の受け取りである。この基本原理にそって、差別や在日についての具体的な発言を竹田氏は続けてきた。
繰り返しになるが、櫻田氏の主張も、差別しないでくれという告発ではなく、自身がよりよく生きるために、このような条件を必要としているという理路の提示である。つまり私たちがその主張するところをよく聞くならば、それが人として、よりよい生を望むこと、プライドを持って生きることという、きわめてまっとうなものであることを了解するのである。たぶん多くの人が、そう願うことなどきわめて当然のことだと感じるに違いない。しかしその当然のことを妨げてきたのが「福祉という呪縛」である。それを知る限りにおいて視線の変更を私たちは受け取り、新しい了解の通路が切り開かれたと感じるのである。
竹田氏は、思想とは人間の生の意識が持つ相互了解の欲望に訴えて、「違った信念の間に、新しい了解の通路をつけるような新しい言葉をつなぐことだ。/思想の本性とはそういうものだ。」と書く(『自分を知るための哲学入門』)。これは思想というものについての素朴ではあるが、きわめて力強い定義である。
『福祉の呪縛』は、思想が知的なこけおどしやレトリックの応酬などによって測られるのではなく、まさに生きることそのものの実質なかでこそ力を発揮するのだという、その本性の姿をよく示し得ており、そのことによって私たちは「相互了解の可能性」(竹田氏同著)を受け取っているのである。
「樹が陣営」17号(1997年10月)より抜粋のうえ改稿
書評その他
佐藤 幹夫
●インターネットにアクセスし、櫻田さんの著書を検索すると、『「福祉」の呪縛』が27件、『国家への意志』が24件、『「弱者」という呪縛』は108件ヒットする(biglobeの検索サイト)。詳細を知りたい方はそちらをご覧いただきたい。
●『「弱者」という呪縛』については、わたしも司会や編集などでお手伝いした、いわば当事者のひとりである。そのわたしがこの著作を論じる、というのも変な話である。さいわい、橋爪大三郎さんが産経新聞に書かれた書評があり、橋爪さんの「コーナー」に転載させていただいているので、参照していただきたい。また朝日新聞には、武田徹氏が書かれている。
一言だけ述べるなら、櫻田さんが、「放談の書」と「前書き」で書いているように、乙武氏への批判、いたずらに延命させることへの疑義、障害者の「性」について等々、メディアで話題にしにくいことに触れているのが、本書のおおきな特徴である、とはいえるだろう。
さらにいえば(二言目になってしまうが)、このなかで触れなかったことがある。天皇制の問題であり、そこはタブーだったのか、とある人に、やや皮肉交じりに指摘された。わたしはなるほどと思い、それなら天皇制の問題、教科書問題で噴出した、戦後補償に関する問題、そして今度のテロ以後の、国家情勢と、九条をはじめとする日本国憲法の問題、これらをテーマとした第二弾がなされてもいいのではないか。そのように思った次第である。
●『国家への意志』については、その書評のすべてに目を通したわけではないが、「読売新聞」2000年8月13日付書評が、書評として要を得て簡潔なものだと感じた。(評者はテレビキャスターの橋本五郎氏)。ネット上にも公開されているものではあるが、抜粋しながら、ここに紹介させていただく。
●評者は、まずこのような時代認識から始める。
「私たちは今、かつてない歴史的な事態に遭遇している。経済、情報のグローバル化という大波が押し寄せ、「近代が生み出したもっとも精巧で有効な装置とみなされてきた国民国家」(野田宣雄『二十世紀をどう見るか』)が融解の危機に直面しているという世界史的な動きに加え、二十一世紀を目前に日本人にとって国家とはいかにあるべきかという根源的な問題を突き付けられているからである。」
●この基本認識には、おそらく多くのひとが賛同するだろうと思われる。しかし、ハイテク全盛の21世紀になっても、国家装置としての「日本」とは、きわめて面妖なものだ、という感覚がわたしには抜きがたい。その入れ子構造は二重にも三重にもなっており、行き着くところ、草の根にまで「日本という情念」が染み渡っている。まずもって「自民党」とやらの面妖さが、すばらしい、こんなすばらしい党はない、とわたしは絶賛したい!
グローバル化に対応し、国家としての可動性を増すべく「構造改革」が言われ、すでに五年。しかしなにが変わったのだろうか。どこを見ても、足はしっかりと、「日本という情念」におろしたままである。「改革なくしてなんとやら」の現政権が80パーセント以上の支持を得ているというその事態こそ、しぶときかな「日本という情念」のあらわれではないか。
そしてここにきて、アメリカを襲った自爆テロである。世界情勢を一変させたといわれながら、結局ひとかわ剥いてあらわれてきたのも、これである。先に掲載した櫻田さんの論文の「苛立ち」も、おそらくここに向けられている。
むろん桜田さんの唱える「国家」は、わたしなどのような床屋政談的なものではない。
●「櫻田氏は、故・高坂正堯氏が腑分けした国家における三つの側面、すなわち『力の体系』『利益の体系』『価値の体系』概念を用いて国家の意味を再構成しながら、『民主主義とは多数の人々の合意、あるいは意志の上に立って、国家という名の『怪獣』を飼い馴らす制度』と断言する。/こうした観点に立てば、国家を「負の存在」としか見てこなかった戦後民主主義の議論は「『怪獣』を飼い馴らすことに伴う緊張感とは無縁の誠に御気楽なものだった」ということになる。」
「ここまではいわば序論である。「政策提言型知識人」たる櫻田氏の真骨頂は、国家を飼い馴らすために何をなすべきなのかについて具体的に提言したこのあとにある。
そこで展開されるのは、統治能力を回復するため「名誉を願い国家を指導する」ことを自らの領分とする真の意味の「貴族制度」を復活することの必要性であり、国家としての役割を画定し国家制度に心棒を通すための内務省復活論であり、さらには「平等主義思潮への訣別」を図るための「富裕階級」の復活論である。
これらはいずれも戦後民主主義が否定してきたタブーにほかならない。それゆえ本書に対しては必ずや「復古主義」の烙印を押す批判者がいるに違いない。しかし、虚心に読めば、埃にまみれた復古調の議論とはまったく異なることがわかる。政治の本質と歴史への洞察、伝統の重視に裏付けられた、私たちが陥っているステレオタイプ的思考を打ち砕く腰の低い論なのである。(以下、略)」
●櫻田さんもまた、復古主義であるとかアナクロである、とかの批判は百も承知だろう。わたしだとて、貴族制度や富裕階級が復活するとは思えない。しかし、書評者が述べるように、櫻田さんをもっとも突き動かしているモチーフは、「名誉」であり「誇り」であり「責任」という、メンタリティの回復である。その具体的処方箋として、貴族制度や富裕階級、内務省復活などを持ち出している。しかし、いってみれば、「日本という情念」の奥深さを逆手に取った、イロニカルな響きを、わたしはそこに感じ取るのである。
むろん櫻田さんは文学の徒ではなく、具体的な政策の提言を自らに課す政治学者である。イロニイなどという言辞をもてあそぶ暇はない、と言われるかもしれないし、政策提言者としての目論見や戦略はおありだろう。しかし「名誉」や「誇り」、「責任」といったものを、この国に取り戻すことがどれほど困難であるか、ということに少しでも思い至るならば、単純な復古主義だと斥けることができるのかどうか。
受講生からの感想
講義 安全保障の現在と展望 (第9期講座)
* 通玄真経の教えは大変参考になりました。また、冷戦後の安全保障には多くの新しい問題があり、
これから日本の出番であるとは感じていましたが、本講義を受け、多くのことが整理されました。
しかし、そのためには日本人の意識があまりにも貧困であり、尖閣、北方領土の問題から国民的議論を展開し、日本人の覚醒を期待します。
[所 信行さんの感想]
* 櫻田先生の話は安全保障をとても解りやすく、人間の行動から説明してくださるので、
自分の職場等に当てはめ、話を聴くことができました。とても面白かったです。
[種村大輔さんの感想]
*正直に言って、櫻田氏の文体は好きではない。ところが、講演はなんとも魅力的であり、
「色気」があった。このギャップはどうして?
[渡辺秀人さんの感想]
* 安全保障という概念が、多様なトピックによって成り立っていることが改めて認識できました。
[匿名希望さんの感想]
*安全保障に関する基本的(原理的)な考え方を解りやすく講義してもらいました。
安全保障を単に軍事・防衛問題としてとらえるのではなく、経済・社会・文化を含めて、
国家の総合力に関わる問題として認識すべきことがわかりました。
[匿名希望さんの感想]
*堅いテーマを柔らかい例を交えて分かりやすく展開され、大満足です。
断片的に入っていた安全保障に関する情報が、頭の中で整理されたような気がしております。
[匿名希望さんの感想]
受講生から寄せられた感想です
