滝川一廣
略歴
1947年名古屋市生まれ。75年名古屋市立大学医学部卒業。現在、学習院大学教授。
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時事論
前書き
滝川 一廣
1995年の4月から96年の3月までの一年間、熊本日日新聞の「論壇」という連載コラムに月一回の小文を寄せた。一応、児童青年精神医学という私の専門領域から子ども問題や教育問題を中心とした時事論をという予定だった。ところが、この年、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり、新聞社の担当者からもそれについてなにか一言という要請もあり、なによりも私自身、この事件からの衝撃は大きかった。あらためて数えてみたら、12回のコラムのうち5回までをオウムネタが占めることになった。
畑違いの領域に首をつっこんで、しかも必ずしも情報が十分でない現在進行中の時事現象に対してリアルタイムでものを述べてゆくのは、危ういことである。自分の知識と判断力からはどこまでなら言えることか、なになら言えることか、そのあたりを測りながら発言するきわどさと緊張があった。
そのオウムネタ5編をここに示すことにする。セミナーにおいてどんなお話ができるか、私自身、まださだかではないけれども、この時代と社会のなかで「こころ」が病むとはどういうことか、私たちの「こころ」はどこにどうあるのかを考えてゆけたらとは思っている。その問題意識へのいくらか前哨的な思考が(書いた当時、意識していたわけではないが)芽生えているような気がするからである。
当ホームページのための書き下ろし
文明不安と自然回復の理念 —ハイジから新・新宗教まで— 時事論(1)
滝川 一廣
少年時代にヨハンナ・スピリの『ハイジ』(一八八一)を愛読した。児童文学の古典で、ストーリーは皆ご存じだろう。モミの木の葉ずれや干し草の匂いやアルプスの夕映えなど、美しく懐かしい自然描写が好きだった。
産業革命を経て近代化が急速に進行する中で、文明社会が一面でもたらすストレスや不安から、牧歌的な自然への憧憬や、自然こそが真の人間性や健康性を回復させるという理念が生まれたと考えられる。この物語の主題がそれで、ハイジの名もギリシャ神話の健康の女神(Hygeia)からきているという。
それと同時に『ハイジ』はキリスト教信仰の書でもあった。都会の少女クララがアルプスの自然によって健康を回復するとともに、神に背を向けていたアルム爺さんがハイジの力で信仰を取り戻す物語である。神は祈る者を必ず見守り、幸福へと深く導きはからってくれる—この素朴な信仰と美しい大自然の懐とに抱かれた調和的世界が『ハイジ』の世界であった。
みずから創り出し発展させてきた文明への一種の不安と不信。自分たちは文明(人工)に蝕まれているのではないかの観念に、近代以降、人々は多かれ少なかれ悩まされるようになった。『ハイジ』は、一九世紀末、そうした近代の始まりを背景に、自然回復の理念と敬虔素朴な信仰をうたったのである。
もちろん、かといって文明の発展を押し止められるわけではない。二〇世紀末の私たちはいっそう高度で豊かな文明を享受している。反面、文明に蝕まれる不安も募っているかもしれない。エコロジカルな自然保護運動や反核運動、自然食品やヨガなどの健康法ブーム、超能力・超常現象(科学ではとらえきれない自然の秘めた神秘的諸力)への強い関心など、いずれもかつて『ハイジ』にうたわれた自然回復の理念が現代的にかたちを変えたものだと思う。
『ハイジ』の世界は自然の風光への信頼と憧憬に支えられていた。しかし、現代ではそうした牧歌はリアリティを失っている。今やアルプスといえ現代文明に浸された観光地だからである。代わりに、現代における自然回復の理念は、森林破壊、核の冬、オゾン層破壊、大気汚染、人工物質に侵され癌化する肉体……等々の破滅や衰弱のイメージと表裏を一体にしたものとなった。そしてこれらのイメージが人類滅亡の観念にまで突きつめられたものが、「終末論」にほかならない。
文明の不安が、現代人に超越性(神)への関心をあらためて呼び起こしてもふしぎはない。しかし、『ハイジ』的な信仰のかたちは、その牧歌と同様、もはや救済力を失っている。古典的な辛苦は現代社会では一般性をなくしたためである。便利で豊かな文明生活が所与のものとなり、これという不自由なく日々を送りながら、その底に漂う漠とした不全感や衰弱感をこそ癒してくれるもの、何か今の自分を超える活力を与えてくれるもの—そのような超越性が希求されるのが現代である。 今日の新・新宗教の多くは、この希求に応えるものとして急速に伸びてきたのだろう。現在、騒ぎの渦中にある某教団も、まさにその典型かと思われる。ヨガの健康道場から出発し、超能力へ強く傾斜し、やがて世界滅亡からの救済をめざす教団へという展開は、現代的な自然回復の理念や超越性希求が進む方向をよく示していないだろうか。大洪水や神の雷が人類を滅ぼすのではない。核兵器、毒ガス・細菌兵器、レーザー光線……教団の流布するハイテクによる「世界終末」のイメージは、現代人の強迫観念ともいえる「文明による衰弱と滅亡」の究極イメージなのである。その上、まことに象徴的にも、教祖自身の肉体も「癌(?)」に侵されているという。
教団に理工系の俊秀が多いのは驚くにあたらない。科学文明の担い手こそ、一方でそれへの不安を抱く者でもありうる。理工系の学者から反核運動家やエコロジストが出るのと同じだろう。僅かな契機の差で、あるいは彼らもそちらにいっていたかもしれない。顧問弁護士は公害訴訟のキャリアを持っている。 ただ、私は終末論的な文明観・世界観にはくみさない。文明への批判的視線は必要だけれど、それが肥大した危機意識や反文明や呪詛に近づいたとき、どこかに認識のくるいや倒錯が生じる。その倒錯の有様を今回の教団にみる思いがする。まだ全貌さだかならぬ現時点で、私に言えるのはここまでだろう。
(掲載紙:熊本日日新聞 「論壇」欄 1995/05/14)
超能力と宗教 時事論(2)
滝川 一廣
昔、探偵小説が大好きで、シャーロック・ホームズのシリーズと並んで耽読したものにチェスタトンのブラウン神父のシリーズがあった。凝った文体と思い切ったトリックと事件解明にあたって神父が繰りひろげる理屈がおもしろかった。チェスタトンはただの推理作家ではない、カソリック信仰の再生を目指した思想性の高い文学者で、ブラウン神父シリーズもそのようなバックボーンのもとに書かれた作品群だった—というような文学史的事実は、当時の探偵小説少年の関心外であったけれども、それでも「なるほど宗教(信仰)とはそういうものか」と感心したせいだろうか。今も印象深く思い出されるくだりがある。
超能力による奇跡としか思われない事件が発生する。科学的無神論者を任じていた登場人物のひとりはそれを目のあたりにして「見るまでは決して信じなかったのに」と叫ぶ。以来、彼は神秘主義に傾倒する。いわば転向である。一方、同じものを目撃したブラウン神父は「見るまでは信じていたのに」と言う。「あなたは神に仕えながら奇跡を信じないのか」と問われると、「むろん私は奇跡を深く信じている。しかしまた、奇跡のなにたるかも知っているのだ」と神父は答えるのである。やがて事件は解明され、たんなるトリックだったとわかる。神父は言う、「この目で見ぬうちは信じないというのは、懐疑ではなく、すでに半ばの軽信である。なぜなら、見さえすれば信じるわけだから」。三十年以上も昔の読書で、正確にこうだったかはおぼつかない。が、大筋はちがってないと思う。さて、以下は私の敷衍である。
「奇跡」「超能力」のたぐいは本当にあるのだろうか。もちろん、この目で見た、まさに経験したという人々はたくさんいる。しかし「まさにこの目で見た、まぎれもなく実体験した」といった体験の事実性と、その事実をどう理解するかの認識の真実性とは同じではない。まぎれもない体験的事実が、実は錯覚の場合も、トリックに引っ掛かっただけの場合も、精神医学でいう幻覚や妄想体験である場合もあるだろう。逆に、まさに奇跡に出会ったとしても、当人が錯覚かトリックだと思って取り合わねば、それまでだろう。奇跡(超能力)は私たちの経験的な理解や認識の枠組みを超えているからこそ奇跡(超能力)だとするなら、その性質上、「経験」に基づいてその存在の有無は問えないもののはずである。とすれば、結局、信じるか信じないかだけの問題になろうか。ただ、信じ方(ないし、信じない仕方)の構造に様々あって、問われるべきはその構造の中身かもしれない。
超能力の存在を信じるにせよ信じないにせよ、次のようには思う。教祖が空中浮揚をしたとか水の上を歩いたなどの超能力は、確かに(事実なら)驚きに値する離れわざではあろう。しかし同時に、それ自体は常人に及ばぬ「技」(技術技能)の発揮というに過ぎないのであるまいか。オリンピック選手が百メートルを八秒台で走ったというの同じで、稀有な天稟や極限的な修練のほどを示すものではあれ、それがそのまま彼が常人を超えた高い精神性の持ち主やだれよりも真理を知る者である証しとなるわけではない。仮にその「技」が自然法則を超えていたとしても、この事情は少しもかわらない。いかに超絶的であろうとあくまでも技は技、思想は思想。超能力にトリックか否かの決着のつかない議論がつきまとうのは、所詮、技術技能の領域だからだと思う。
主イエスが水上を歩いたとしても、そんな事柄はイエスの教え(思想)の正しさや深遠さを証しはしない。神の子たる証明にもならない(悪魔の子でも、そのくらいの技はやってのけるだろう)。実際、キリスト教はそんな技ゆえに古代世界を大きく変えてしまうまでの力をもったわけではなかった。超能力のたぐいを売り(?)にする宗教は、このあたりに錯誤がありそうで、宗教としてあまり高く買えない気がする。
ブラウン神父(あるいはチェスタトン)は科学主義と神秘主義とを一枚の歪んだ硬貨の裏表として共にしりぞけて、真実への謙虚さ(神への敬虔さ)がもたらす理知や合理的な思惟といったものを主張していたように思う。現代の宗教界でのブラウン神父評価は知らない。しかし、今日の宗教状況に絡めて考えると、興味深い主張かもしれない。
(掲載紙:熊本日日新聞 「論壇」欄 1995/06/11)
サブリミナルコントロールは可能か 時事論(3)
滝川 一廣
某TV局が報道番組にサブリミナルなカットを入れて批判を浴びた。批判は当然としても、それ以上に、なぜそんな行為に誘われたのか制作者の率直な動機を知りたいと思う。責任追及や処分よりも、その分析のほうが重要である。
映画館で上映中のフィルムに<コーラを飲もう>の文字フラッシュを反復挿入してみたところ売上が急増したという。意識にとまらぬ瞬間的映像によるメッセージが潜在意識に働きかけて観客にコーラを買わせたというのである。この実験が雑誌記事で報道され、サブリミナル効果の名を広めた。
しかし、この有名な実験は正式の報告が存在しないなど信憑性に疑いが残り、サブリミナル効果によるコントロールの可能性についても現在なお研究者の見解は分かれるようである。しかも、狭い意味の学術的対立にとどまらず、効果に否定的な研究者は肯定的な側から「大衆のパニックや不信感を恐れる為政者や広告資本の立場に立って事実を隠す者」だとされ、逆に否定的な側に言わせれば肯定的な研究者こそ「この効果を売り物にするサブリミナル産業のお先棒」というふうに、主題が主題のせいか、互いの見解を隠れた動機に基づくものとみなしあう傾向も見られる。 実験心理学は専門でなく以下は机上の談義だけれども、この効果の有無は地味な実験の積み重ねから解明されることが大切だろう。きっと専門家は地道に取り組んでいるにちがいない。まず、瞬間的な映像が識閾下で知覚されるかを調べるのが出発点だろう。たとえば、梅干を知覚したら唾液がでるよう条件反射をつけておいて、映画フィルムに梅干のカットを瞬間的に挟んで唾液分泌をみるなどの実験が考えられるかもしれない。これでサブリミナルな知覚がもし実証されたら、静止画像で梅干を見せた場合と比べて唾液分泌の程度を調べる。サブリミナルな知覚が、意識された知覚と同等もしくはそれ以上の反応をもたらすかどうかが重要だからである。
ただ、ここまでは生理的反応の水準で、財布の紐を緩めてコーラを買うなど意志を介する行動とには大きな隔たりがある。サブリミナルな知覚が意志行動をどこまで左右するか(しないか)こそが問題の焦点なのだが。この先は簡単でなく、サブリミナル効果の評価が分かれるは、これをあやまたず調べる実験の困難さのためではないかと推測する。潜在意識の作用として存在は疑いない催眠現象も、いつでもだれにも起きうるわけでなく特定の条件設定下ではじめて可能な現象である。したがってサブリミナル効果も、仮に存在しても、さまざまな条件や要因や個人差に左右されるデリケートな効果であるまいか。はっきり取り出すのは難しいにちがいない。
むろん、以上は非専門家の憶測に過ぎない。それより、ここで考えたいのは心のコントロールへの現代人の強い関心である。サブリミナル効果が大きな論議を呼ぶのも、この関心ゆえだろう。人々の抱く欲求や人と人との交流を対象とする第三次産業中心の社会では、心の扱いがたえずテーマとなってくる。私生活でも、人間関係の微妙な心の綾にいつも晒されるのが私たちの生活となっていまいか。 しかし、そうした生活の中で顧みれば、人間の心ほど思うにまかせぬものはない。他人の心は自由にならない。いや、他人の心だけだろうか。自分自身の心すら自分の思いどおりにならないのではないか。自分の心が自分がかくありたいと思うままにあってくれたら、どんなに心は安らぐだろう。だが、自分自身のものでありながら、自分の心はなぜか思うようにいかないのである。
自己開発セミナーから新・新宗教にいたるまで、意のままにならぬ自分の心という問題、それをどうコントロールするかの問題に鋭敏に応えてきたところがあり、それが現代人に吸引力をもったかと思われる。「解脱」を目指す修行など、まさにそれだろう。
もしかすると、現代文明が色々なものをコントロール可能にしてきた結果、ついに残されたものは自分たちの心になってきたのかもしれない。心をコントロールできたらという願望と(裏返しの)コントロールされたらの不安。その「マインドコントロール」ぶりが恐怖をもって語られる教団を報じた報道がサブリミナルカットを挿入する混迷的事態に、私たちが強いられている願望と不安のありようを見るべきなのだろうか。
(掲載紙:熊本日日新聞 「論壇」欄 1995/07/09)
自由と人権のジレンマ 時事論(4)
滝川 一廣
失踪した弁護士一家の遺体が元教団幹部の自供どおりに発見されるにおよび、終始ぬれぎぬを主張してきた教祖・教団側の言い分はほぼ崩れたといえようか。これとともにサリン事件に関する疑いも、様々な状況証拠とも合わせて、いっそう濃厚さを増した。とはいえ、裁判で証拠と証言がきちんと公開され、その真偽や妥当性が十分検討されるまでは容疑はあくまで容疑にとどまるという節度ある報道や言論の姿勢を、松本サリン事件で第一通報者をいかに扱ったかへの反省ともども、私たちは忘れるべきではないだろう。
一連の事件は大きな難問を私たちに投げ掛けたと思う。たとえば弁護士失踪事件で、なぜ警察当局はもっと迅速かつ積極的な強制捜査に踏み切らなかったのか、そうしていさえすれば……の批判の声が高い。確かにそう悔やむのが人情というものであろう。しかし、これは結果論かもしれない。心証や幾通りにも解釈可能なわずかの手掛かりだけから容易に強制捜査が行なわれるのが通例になれば、私たちの自由や人権の上に由々しいかげを落としかねぬ事態も起きうるだろう。それでもよいとの前提がないかぎり、失踪事件発生当初での強制捜査はむりだったのではないかと顧みる必要もある。
殺害された弁護士をはじめ教団追及に心血を注いだその同僚弁護士らは「人権重視」の理念的立場にたつ法律家たちだったと思う。だからこそ教団のやり方とは鋭く対立せざるをえなかったわけだが、一方でその同じ理念からは、警察の強制捜査など公権力の行使には一般に慎重さを強く求める立場でもあったはずにちがいない。その理念的な立場と、みずからが当事者となったこの事件への当局の「及び腰」もしくは「慎重さ」への歯がゆさや苛立ちとの間で大きなジレンマに出会ったかもしれない。テレビにしばしば引っ張りだされる弁護士らが、教祖・教団への怒りは怒りとして、それよりもこのあたりの機微についていつか深く語ってくれたらと思う。
地下鉄サリン事件のあと、警察の姿勢は一転する。教団本部や道場への物々しい大規模な強制捜査にとどまらず、これまでの慎重さとはうってかわって、強引ともいえる「微罪逮捕」や「別件逮捕」が多数の信徒に対して矢継ぎ早に行なわれた。一部の幹部を除いて、おそらく大部分は起訴もされずに釈放されたことではあろう。しかし、これら個々の信徒が、今回の逮捕は行き過ぎで個人への人権侵害だと訴えたら、この件に関しては先の弁護士らはどんな法的見解をおおやけにするだろうか。これにも耳を傾けてみたい(どこかですでに発言されているだろうか)。
いや本当は弁護士らがというより、私たち全体がいま述べた大きなジレンマにぶつかったのでなかろうか。自由主義にたつ法治国家の理念的原則として、個人の人権も思想信条に基づく結社活動の自由も最大限尊重されねばならない。そこへの公権力の介入は十分な根拠と慎重な手続きをまって初めて許されるべきで、ときにその制約が「歯がゆさ」をもたらす事態もあるにせよ、この原則を崩し去れば私たちは警察国家や専制国家への歯止めのひとつを失うことになる。この観点からは、強制捜査をたやすく求めることも微罪逮捕・別件逮捕を看過することも、実ははなはだ危険な要素をはらむといわざるをえないだろう。
しかし一方、今回のごとく市民が無差別テロにさらされた危機状況に対して、ではどう対処すればよかっただろうか。また、可能性は乏しかったにせよ、仮にも教祖の夢想どおり教団が国家権力を掌中にしたとしたら、それこそ自由も人権もない惨たる社会が実現しただろうことは想像に難くない。この観点からは、今回の捜査手法はやむをえぬ緊急措置とみなすべきかもしれないのである。
このふたつの観点は二者択一不可能なものかもわからない。背後にあるのは「人権」とか「自由」とか社会理念の上では当然視されている前提が、現実の前では深刻なジレンマや自己矛盾やねじれを生むという問題である。この難問に対し、思想レベルではどう掘り下げてとらえなおすか、実務レベルではどんなルールを工夫すればよいのか。これらについての冷静な論議のほうが、教祖・教団へのひたすら正義の糾弾や煽情的なスキャンダル暴きよりも、これから私たちみずからが生活と社会を守っていくために、はるかに必要で大切な言論活動になると思う。
(掲載紙:熊本日日新聞 「論壇」欄 1995/10/08)
なぜ障害児が生まれるのか 時事論(5)
滝川 一廣
ある新・新宗教の信徒が入信理由を次のように語るのを読んだ。彼女は国立大学の教育学部で障害児教育を専攻する学生だったが、障害児について深く思い悩んできた。一体どうしてこのような子どもたちが生まれてしまうのか。ボランティア活動をしても、大学で勉強を重ねても、その答えはみつからなかった。しかし、その教団の教義に触れたとき、その疑問が一挙に氷解するのを感じたという。すなわち、前生の悪行がカルマとなって現れたのが障害児なのだ、と—。
私は考え込んでしまった。心身の発達に遅れる障害児がなぜ生れるかは確かに大きな問題で、昔から様々な説明が試みられてきた。「前生の因縁」というのもそのひとつで、近代以前には珍しくもない説明であった。それを新・新宗教の教義でいまどき知って、しかもそれで目から鱗とは……。近代的な「知」が絶対ではないとしても、歴史を顧みるかぎり、「前生の悪行」式の因果応報論や宿命論の呪縛から病者や障害者を解き放ったのは近代知の大切な成果ではなかっただろうか。
今日、終末論的宗教が台頭してきた背景には、「人類の歴史は進歩の歴史」といった近代主義的な進歩史観のゆきづまりがある。しかし、だからといって、歴史への無邪気なまでの無知の現われとしか思えない「知の逆戻り」も果たしてどんなものか。
しかし、この障害児理解を非科学的とか迷蒙とか敢えて一蹴はすまい。彼女がなにを真剣に悩んだかは、わかるからである。現代科学は障害児の個別的な「原因」をかなりのところまで説明できる。たとえば、この子はダウン症候群だったからだ、とか。しかしながら、なぜこの子はダウン症候群であらねばならなかったのか、染色体異常があったからだ、ではなぜ染色体に異常があったのか、染色体が作られる段階でかくかくの現象が生じたためである、ではなぜその現象が生じたのか……と根問いを続ければ、どこかで「偶然の巡り合わせ」としか言えぬところに行き着かざるをえない。一方、全体としてとらえるなら、知能発達には(背丈などと同様)おのずと個体差があり、それは統計学的に正規分布をなしている。従って理論的にいえば、一定以上知能発達の遅れる者はある確率で自然に生じるのであって、その意味でなんら特殊な異常現象ではない。1〜2%の確率で必ずだれかが発達の遅れをひきうけ、だれがそのカードを引くかはやはり確率論的な「偶然」に過ぎない。染色体異常をはじめ現在知られる様々な「原因」は、いわばカードを引きあてる確率を高める因子と考えればよい。
大学で専攻した彼女にこうした知識が皆無だったとは考えにくい。彼女がぶつかったのは、ほかのだれでもなくなぜこの子なのか?の問いだったと想像できる。障害児の親が「この子ばかりがなぜ!」と思わず叫ばずにいられない、その「なぜ」である。この問いを前に、この子らは偶然カードを引き当てただけでは納得できず、ひとりひとりを障害に結び合わす「必然」の糸を求めて思い悩み続けてきたのだと思う。
「すべて偶然」という思想には人間は安住できない。ものごとには必ずなんらかの理由や因果関係があるはずだという観点から、つまり「意味」から世界をとらえるのが人間の心性で、近代以降の自然科学こそ、まさにそれを方法的に突きつめたものである。けれども、障害児の原因で述べたごとく、科学も先端では必ず「偶然」にぶつかる。どこから先は「偶然」かを見極める学こそが「科学」だと言いたいくらいである。しかし、心身障害のような不幸な事態が偶然であってよいものか、きっと必然性が潜んでいるはずだの強い思いが彼女を放さなかった。そして、その教義に出会ったとき、一気に霧が晴れる思いを得たのだろう。入信は了解できる。
けれども、と私は思う。「偶然」のない世界、ものごとに必ず理由や意味がある世界は、けだし空恐ろしい世界ではないか。たとえば分裂病の急性期に体験する危機的世界がそれである。不確実な偶然に囲まれていることのうちにこそ、私たちの精神の自由も可能性も豊かさもはらまれていると思う。むろん、その一方、偶然は大きな不公平もはらみうるゆえに、それをどう解決するかが私たちの大きな課題となる。彼女がぶつかったのも、実はそれである。だが、それへのやっと見つけた答えが「前生の悪行」というのでは。
(掲載紙:熊本日日新聞 「論壇」欄 1995/11/12)
滝川氏発言より(1)
滝川氏の足跡、精神療法の基本的な考えに関するものを抜粋
引用者 佐藤 幹夫
(略)次は、じゃあおまえは何をしてきたのか、を話さなければならないわけですが、私自身は精神科医の中では心理療法の臨床をやってきたのではないかと思いますし、周囲からもそう見られているのではないかと思います。ただし、例えばロジャーズの研究所で修行してきたロジャリアンですとか、行動療法家ですとか、精神分析家ですというような、ある流派や学派のなかでひとつの技術を徹底的に身に着けた治療家ではないんですね。そうやって一つの技術を身につけることがプロであるとするならば、私はシロウトです。あえて派を分ければ折衷派といいますか、そういう存在でしょうか。(略)
心理療法とは、結局、観念に偏りすぎないことが大事で、こころとこころの生身の関係を扱うのですから、その方法論も生身の体験のなかから少しずつ身につけてきたものが大事でしょうね。心理療法の本をたくさん読破し、たくさん研修に参加すれば、じゃあよい心理療法家になれるかといいますと、必ずしもそうではないんです。それ抜きでもだめですけれど、それだけではだめなんですね。理論からではなく、生きた人から学ぶ側面が必要だと思います。「技法」にであうのではなく、「人」にであうのだというところがあります。
その意味で私の場合には、たまたま何人かの良いお師匠さんに出会うことができ、それを見よう見真似で学んできた、そのことが良かったといえます。
私が精神科医になろうと教室に入ったときのお師匠さんの一人は、皆さんもお名前をご存知でしょうが、木村敏さんですね。木村先生が教授になられたばかりのときでした。そのとき助教授に来られたのが中井久夫先生です。それから今は京大におられる山中康裕先生、臨床に徹して開業しておられる大橋一恵先生が先輩としておられました。この方は土居健郎さんの直弟子ですね。
いまにして思えば、考えられないようなそうそうたるメンバーだったのです。(略)
精神科医になりたての西も東も分からない時に、以上のごとくそれぞれの履歴も立場も違いながら、腕のいい先生方から直接間接にいろいろ吸収できました。押しも推されぬ木村敏、中井久夫ですが、当時は知る人ぞ知るだけの存在で、何も知らない私は、大学教授や助教授は皆こういうものだろう、大学で教えるほどの精神科医は一般にこれくらいの見識と技量があるものだろうと思っていました。(略)
そんなことで、私は特定の流派に属さずに臨床を続け、無党派折衷主義でやってきました。スタートがこうだったので、それが根っこなんですね。でも、ときどきはきちんと専門的な勉強をしないといけないかなと思って、心理療法のいろいろな専門流派の会を覗いて回ったこともあるのですが、鼻白むといいますか、同じ流儀、同じ治療観の人たちだけがそれぞれ集まっている、いわば一種の党派なんです。いちおう私は全共闘世代なので、党派性には懲り懲りなわけでして(笑)。互いに他の流派に冷淡か無関心に過ぎますしね。同じ流派内でも分派的な(?)対立はあって論争などもしていましたが、私にはなじめなかったですね。
ちょっと勘弁してくれという感じで、自分なりに考えてやっていったほうがなじむと思いました。もっとも、それにはそれで自己流のもつ「独断と偏見」の恐れがあるわけです。そこに陥らないためには、自分がやったり考えたりしている精神療法を、たえず日常一般の経験に広く置き直してみることですね。うまくやれているかどうかは別として、心がけとしてはそういうことですね。(略)
私は学校論とか教育論もやっていますが、それも全体の中に物事を置きなおしてみるという方法意識から自ずと出てきたものです。
(技法が)いろいろあるなかで、ある精神療法がその社会にどれくらい受け入れられるかはその社会ではどんな価値観や人間観が一般的かの関数だといえると思います。例えばある療法は治療効果が80パーセント、別の療法は60パーセントだとします。身体療法であれば、誰でも80パーセントのほうを選びますね。患者さんもそうですし、医者のほうも乗り換えるだろうと思うんですね。ところが、心理療法では、それはあまり起こらない。
どうしてかといいますと、習い覚えた技術を捨てて新しく習得し直すのは大変という事情もあるかもしれませんが、それだけではないでしょうね。心理療法とは人と人との関わりですから、そのかかわる方法が自分が持っている対人関係についての価値観や人間観とまったく合わなければ、たとえ治療効果が高いといわれていても、それを選ぶ気にはならないと思うんですね。無理に学んでも身につかないし、うまくいかないと思います。ある治療技法を、ある治療者が自分の方法として受け入れて習熟できるかどうかは、技法のバックにある人間観とその人が抱く人間観とが矛盾しないことが条件なんです。患者さんにも似たことがいえて、自分のそれに合っていない療法だとなかなか治らないですし、だいたい長続きしませんね。
ある技法がどれだけ一般化するかは、その社会でどんな人間理解や価値観が一般的かによると言えます。わが国では折衷主義が多いのは、それが日本の精神風土に合っているためかも知れません。
掲載誌:樹が陣営20号 座談会
滝川さんの自閉症論について
自閉症とは何か
佐藤 幹夫
当ホームページを覗いてくださる方には、「自閉症」という発達障害はあまり馴染みがないかもしれない。自閉症の子どもたちは、言語、感覚、行動において際立った特徴を示すが、以下、簡単にその様子を紹介してみる。
話しかけられてもオウム返しの答えだったり、反響言語(エコラリア)とよばれる場面・状況にかかわらない独り言であったりと、「会話」の成立が難しい。また「いつ、どこで、なにを、なぜ」の問いに答えたり、人称の変換や視点を置き換えたりすることが困難である。彼らは人に関心を示さないと言われるが、対人的志向性の弱さと独特の言語とは相互的である。対人志向性の弱さは、乳児時点からの、大人との「やり取り」の弱さを希薄にさせるが、わたしたちが、言葉、と呼んでいるものは、おびただしい「やり取り」を経て身につけていくものである。そして対話的言語の未形成は、さらなる対人志向性の弱さを作り出すことになる。
また「感覚障害」などと言われるるように、聴覚・視覚・触覚・味覚・固有覚・前庭覚などに極端なアンバランスを示す。
たとえばある特定の音に過敏で恐怖感を訴えたりする反面、他の音にはきわめて鈍感だったり、常時耳をふさいで音を遮断している子がいたりする。このようなタイプは、視覚に対して、聴覚が過度に優位である。あるいはまた、ジグソ—パズルがきわめて得意な子がいる。絵を見て組み合わせているのではなく、ひとつひとつのピースの形を合わせており、細部は形の細かなところまで見分けるが、全体の絵柄が認知できないという特徴の現われである。模写なども、細部まできっちりと書きこむなど、このタイプは視覚に優位性を持つ。その他、味覚過敏(これは好き嫌いを超えた印象を受ける)、高所、閉所に対する恐怖を訴えたり、ブランコやトランポリンなどの「揺れ」に固着的になったり、同じ動きを常同的にくり返すなど、触覚・固有覚・前庭覚に優位を残す子が多い。
なぜこうした極端な偏りがあらわれるか。
わたしたちは高度な社会を営むに連れ、味覚や触覚よりも聴覚に、聴覚よりも視覚に多く依存しながら生活するようになった(近接受容から遠隔受容へ)。従って、思考やコミュニケーションを円滑に行うために、近接受容器(味覚・触覚・固有覚)よりも遠隔受容器(聴覚・視覚)を発展させてきた。逆に言うなら、わたしたちにとっては「見ること」や「聞くこと」自体がすでに文化的・社会的な行為だと言えるのである。しかし自閉症の子どもたちは、遠隔受容器の発達が遅れ、近接受容器への依存性を多く残している。あるいは視覚と聴覚の協応的な情報処理ができず、どちらかへの一方的な依存ゆえの偏りであると思われる。
彼らの見せる「こだわり行動(同一性の保持)」は、知覚情報処理のアンバランス、あるいはその発達の遅れの結果である。
空いている戸は必ず締める、シャツの裾は絶対にズボンの中に入れない、飲み始めた飲料は容器が空になるまで飲む、濡れた衣服は絶対に身につけないなど、それぞれに独自のこだわりがあり、日常生活に支障をきたすことも少なくない。その他、記憶の仕方が独特であり、一度通った道は覚えてしまう、幼少の記憶の細かいところまで覚えているなども報告されている。この独特の記憶保存が、彼らのこだわりに、少なからぬ影響を与えている。
こだわり行動は、彼らの「不安」の解消のあらわれであり、従ってこだわりが阻止されたり、予期せぬ事態が多発して混乱が限界を超えたとき、パニックとなる。
まだ彼らの世界は充分に「解明」されてはいない。日々の暮らしにおいて彼らは不安に満ちており、わたしたちには想像できない独特の「苦しさ」、「辛さ」があると推測される。ドナ・ウィリアムスの『自閉症だった私へ』には、その一部始終が描かれている。
当ホームページのために 書き下ろし
(佐藤幹夫 2001/12/03)
滝川自閉症論の特色(2)
佐藤 幹夫
さて滝川さんの「自閉症」論である。
わたしが手にしている論文は三本。<1>「小児自閉症はどう研究されてきたか—回顧と展望」(92・2。これは研究会発表のレジュメのようで、未発表か。滝川さんにしては珍しく強い調子の文章となっている)。次は<2>「小児自閉症—子どもの発達との関連で」(1995・7「こころの科学」62)。三本目は<3>「自閉症はどう研究されてきたか」(2000・10。これはシンポジウムの記録で、やはり未発表か)。
それぞれ論点の推移はあるが、最初の「小児自閉症はどう研究されてきたか——回顧と展望」が内容も網羅的であり、分量もおおく、ここで中心的に取り上げたい。その論は、わたしが読んだ10冊ほどの「自閉症論」のなかでも、村瀬学さん、浜田寿美男さんのものと並んで、群を抜いて原理的かつ人間論的洞察に満ちたものであった。(わたしが私淑してきた宇佐川浩さんも、視覚と聴覚の発達過程を精緻に分析することで、自閉症に対して独自のアプローチをしているが、いまのところ「自閉症論」としてまとまった論述はない。)さて、短い紙数で、滝川さんのどこがどうすごいかが説明できるかどうか。
滝川自閉症論の特色は何か。
まず、自閉症は一般に脳の器質障害だとされる。そしてそこで終わりである。この「終わり」という意味を理解していただけるだろうか。
決定的治療法がなく、従って薬物療法、療育法・指導法などに多くの考察が費やされることになる。研究は精査になっており、それはそれで学ぶものが少なくはないが、とどのつまりは「脳の障害—医療的治療困難—薬事療法及び対症療法的療育」、言われていることはこれだけである。
滝川さんも脳の障害を斥けてはいないが、それは生起率を高め、障害の程度を重くする要因ではあるが、自閉症を誘発する決め手とはならないとする。
(ア)
《脳器質異常とは小児自閉症の発現に対して、その発現確立を高める「非特異的」な負荷に過ぎないと考えれば説明がつく。/そのような性質の障害を我々はすでに知っている。「精神遅滞」である。・・・(略)・・・/小児自閉症もこれとまったく同様と考えればよい。何らかの特殊で特異的な病変に起因する障害ではなく、さまざまな脳器質異常を非特異的な負荷としたり、また必ずしも器質異常がなくても生じうる発達の「遅れ」の一形態なのである。》
<1>より
いま、このような見解は少数派に属するだろう。少数派であるからだめだなどと言いたいのではない。逆である。わたしは医療においてはシロウトであるから遠慮なく言うが、脳の科学的解明の進展を持ち上げることで自閉症の説明をことたれりとする見解が、いかに人間論的洞察を放棄したものであるか、そのことに無自覚であるか、といえば、言い過ぎか。しかし、自閉症に関する書物をひもといてみれば、まずそのほとんどが、脳障害を基盤にした発達障害である・・と、書き始められている。
少しは業界の内部にいて、自閉症のなんであるかについての文献を多少なりとも漁ったり、「研修」に顔を出したりした人間からすれば、脳の器質異常が「非特異的な負荷にすぎない」と言い切ることがいかにすごいことか、わたしの驚きを、少しは理解していただけるだろうか。
そして滝川自閉症論の結論めいたことを拾い出せば、次のようになる。
(イ)
《いわゆる知能(認知・認識)の発達には個体差があり、一定以上、発達が遅れ、その遅れのために生活上の困難にであう子どもたちを精神遅滞と呼んでいる。この遅れ自体は特殊な例外現象ではなく、本来、連続的・相対的な個人差にすぎない。まったく同様に、対人的交流を発達させていく度合いにも個体差があり、一定以上の遅れのため、さまざまな困難にであう子どもたちをわたしたちは小児自閉症と呼んでいるだけであろう。やはり、本来、連続的・相対的な個人差にすぎない。》
<2>より
「連続的・相対的」とは何に対しての連続であり、相対か。言うまでもなく「健常」とか「普通」とか「ノーマル」といわれているものに対してである。自閉症の子どもたちが見せる困難も、わたしたちと連続性を持ち、相対的なものだ、という。「遅れ」であり、「欠陥(deficit)」ではない、という。このように言い切っている。
対人障害、その結果としての対人交流の遅れ、相対的遅れ、これが滝川自閉症論の最重要キーワードである。
神経生理学やら認知心理学がここまで幅を利かせている昨今、そして児童精神医学会にあって脳障害説の支持者が9割以上ではないかと推測される昨今、このように言い切るからには、ご自身の理論的根拠に、言い換えるなら人間論的洞察に、そうとうの自負があるはずである。滝川さんは「佐藤さん、自負だなんて、そんな滅相もない」と言われるかもしれない。
彼らの特徴は、あまりに固有であり独特であるため、わたしなどもつい、やはり脳のどこかに故障があって・・・などとという考えに傾きがちになるが、滝川自閉症論はあくまでも、連続性と相対性のなかでとらえる、という観点を手放さない。
当ホームページのために書き下ろし
(佐藤幹夫 2001/12/03)
「社会的・文化的存在としての人間」(3)
滝川自閉症論・人間論の、もう一つのキーワードをあげるならば、「社会的・文化的存在としての人間」である。精神発達も言語発達も、そして知覚も、文化を獲得し、周囲の人間(精神)世界に参加していく過程のなかで述べられる。むろん自閉症のさまざまな「遅れ」も、その相対的・連続的な「遅れ」として説明される。この説明は圧巻である。主要部分のみの引用となるが、
(ウ)
《私たちがふだんは「知覚」と体験しているものも、純粋知覚ではありえず、自分たちの文化(共同性)の相のなかである能動的な切り取り方をして認知(認識)している。》
(エ)
《私たちの認知(認識)には、歴史的社会的に形づくられ共有されてきた(広義の)文化という構造がはらまれており、私たちの精神発達とは、生れ落ちたばかりの文化(ほぼ)ゼロの状態から出発して、その文化を次第に習得していくプロセスと考えられる。従って精神発達やその遅れを、個体内部の中枢神経系の生物学的な自然過程の開花ないし障害に帰して説明するのは無理がある。文化とは生物学的自然として脳や遺伝子のなかに存在するものではなく、人類が長い歴史をかけて社会的につくりあげてきた、いわば人工的な規範として個体の外にある存在だからである。》
(オ)
《精神発達を促すpotentialityは、以下の(A)×(B)で表わされる。
—個体の側の要因— —環境側の要因—
(A)(a)中枢神経系の生物学的基盤 ×(b)物理・化学的な感覚・知覚刺激
(B)(c)対人交流への能動的な志向性 ×(d)すでに発達をとげた
文化を獲得している)人々の関与
A:人間の生物学的(個体的)側面
B:人間の社会的(共同的)存在としての側面
(a)〜(d)のいずれに不足があっても発達を遅らせたり阻害する要因として働く。》
すべて<1>より
先に(イ)の引用により、対人障害をもっとも基底におくのが滝川自閉症論であることは見てきた。(c)の遅れである。なぜ(c)が遅れるのか、とどうしても問いたくなる。しかしくり返すことになるが、注意しなければならないのは、滝川さんが自閉症とは「欠陥」による結果ではなく、「遅れ」そのものの相対的現象だと捉えている点である。
従って(c)の「遅れ」を(a)に求めないということ、(a)の「欠陥」が(c)となって現われると、リニアには見ないこと。精神遅滞、いわゆる「知恵遅れ」もなんらかの(a)の原因が定位されるものではないように、自閉症もまた同様である、ということ。
言い換えるなら、人間の発達を(あるいはそのつまずきを)、一つの因子に求めない。絶えざる相互要因の中で考えようとする。その論理的根拠が(ウ)の引用、個体内部の生物学的自然の開花が発達ではない、という点、(A)×(B)によってなされる精神発達とは、あくまでも「文化的・社会的」人間への志向そのものであるという点。
ここが、滝川自閉症論理解のポイントであるようだ。対人交流の志向性は、おそらく底板である。その結果、
(カ)
《小児自閉症とは、この(対人交流のこと—佐藤)形成が極めてゆっくりだったため、対人交流に媒介されてはじめて発達(獲得)可能な(社会的・文化的なcodeを要する)精神機能の領域において遅れをとってしまう子どもたちに過ぎない。》
<1>より
だからこそ相対的・連続的な遅れとされるのである。その連続性は、次のように図示される。
認識発達
↑
│
│ ・自閉症(発達群) ・普通
│
│
│ ・自閉症(遅滞群) ・精神遅滞
│
└─────────────────→ 対人交流発達
改めて言うまでもないと思うが、あまたの精神科医が自閉症の子どもたちを、「自閉症という欠陥をもつ治療の対象」としてのみ記述することとは対極の態度があると、わたしはエラソウに書いておきたい。むろん、本当にえらいのは、滝川さんであってわたしではないが。
神経生理学的見解が万能のように流布している昨今、科学的見解を自説に繰り込みながらも、このような人間論的見解を堅持していることは、た易いことではない。とくに精神医療のように、人間関係そのもが治療重要な因子となる領域においてはなおさらである。
以下に、自閉症に固有の症状を引用することになるが、長くなったので、一回目はここまでとする。
続きを読みたい方は、一週間後、もう一度訪問していただきたい。橋爪さんのときにはこの論法で続きをサボらせてもらったが、今回はしっかりと書く。
実は「続き」の原稿もすでに佐藤さんから届いています(ホームページ掲載をサボっているうちに届いてしまった)。続きを読みたい方は、一週間後、もう一度訪問していただきたい……してください。(2001・12・10 杉山千郷)
当ホームページのために書き下ろし
(佐藤幹夫 2001/12/03)
その他、固有の表れに対して(4)
佐藤 幹夫
彼らに固有の症例を、滝川さんは、「同一性保持(こだわり行動のこと—佐藤)への強迫的欲求」、「知覚の異常性の問題(および身体性の異常の問題)」、「感情認知の問題」、「不安やパニックの問題」として取り出している。これらはひとつひとつバラバラにあるのではなく、それぞれが絡み合っている。
以下、自閉症の子に特有のあらわれを、滝川自閉症論においてどのように説明されているか、その主要部分を列記したい。
1) 同一性保持(こだわり行動)への強迫的欲求について
《1(同一性の保持は)精神発達のプロセスにおいてほとんどの子どもが通過する現象で、自閉症児の特徴はこの症状を持つところにではなく、この段階に長くとどまるところにある。
4(精神遅滞児が自分の理解をこえたことや未経験の事態に取り囲まれ、そこで生活を余儀なくされるために「同一性の保持」が多く見られることと—佐藤註)自閉症児も同様である。しかも、まわりの世界を共同的な普遍性の相のもとに認知して秩序化する心の働きの発達が遅れるため、彼らはまわりの世界をそのつどの直接体験(直接知覚)に依存して認知せざるをえない度合いが高い。従ってまわりの体験野(知覚野)のわずかな変化ですら大きな秩序の変容として体験されやすい。そのため、些細な変化でも大きな不安を惹起しうると考えられる。また、まわりの人々がどんな状況でどんな行動パターン(対処法)をとるかを観察や模倣を通して習得し、行動レパートリーを広げていくことに遅れるため、自前の限られた行動パターに頼る(固執する)しかない。これらのために、自閉症児においては「同一性の保持」がとりわけ極端なかたちで目立ちやすいのであろう。》
<1>より(1,4は原文の通し番号)
「まわりの世界を共同的な普遍性の相のもとに認知して秩序化する心の働きの発達が遅れるため、彼らはまわりの世界をそのつどの直接体験(直接知覚)に依存して認知せざるをえない」ことが大きな不安の要因となる。
つまり、彼らにとって「日常体験」とは「意味の体験」というよりも、もっと意味以前の直接的・知覚的なものだ、ということがここで述べられている。快・不快といった情動に、それは直結する。情動は、すぐさま行動を呼び起こす。
しかし、知覚体験さえも文化的・共同的な組織化であると指摘されていることはすでに引用した(ウ)。その行動が、わたしたちから見れば無意味に見えたり、目的を欠いているように見えるのはこのメカニズムのためである。快のときには快の行動となり、それは自己刺激的常同行動となって固着する。不快のときには不快の行動となり、自傷行為もまた彼らにはよく見られるものである。
日々において、次々に生起する物事を意味づけることができないとき、あるいは意味づけることのできる物事が少ないとき、それがどんな不安をもたらすことになるか、察して余りある。おそらく、彼らにとってはわけの分からない情報の洪水であるだろう。
2) 「知覚の異常性の問題(および身体性の異常の問題)」
知覚の異常性に関しては、一回目の冒頭で書いた。それを知覚の情報処理機構における「入力障害」ととらえる見方がある。「認知機能障害」などと言われる。(正直に書けば、わたしも以前はこの説をとっていた。知覚情報が、うまく統合されていない、という感じがしてならなかった。情報処理をまとめるための「感覚統合訓練法」という療法がある。これを授業実践に使ったところ、きわめて多動だった子が、落ち着きを見せた経験もあり、いまだにすべてを否定し難いものがある。彼らの知覚の仕方は、それほど独特だと感じさせるのである。)
滝川さんは、人間の精神活動はたしかに「情報処理活動」や「認知(認識)活動」には違いないが、「それでは、小児自閉症とは「精神機能の障害」だと言っているのと大して変わらない。そんな説明なら、すべての精神障害がそうだ。」と、切って捨てる。そしてここには二つの説明可能性があるとする。ひとつは脳器質異常に起因する神経学的障害。しかし、これはやはり報告が多様であるため、自閉症全体の説明にはならないという。
素朴な疑問なのだが、上の「認知機能障害」と、この「神経学的障害」はどう区別されるのだろうか。ここはお聞きしてみたいところだ。
滝川さんは先に紹介したように、子どもは文化に参入する発達過程において、遠隔受容器に基づく認知を洗練させていくのだが、「自閉症児はこの参入に遅れるため、私たちの文化尺度から言えばprimitiveな近接受容器への依存が大きく残る」とした後、
《perceptual inconstancy(知覚の非恒常性のこと—佐藤)の問題は、これは別に病理現象ではなく私たちだってよく考えればそうではあるまいか(面白い話を聴いているときは窓の外の車の音は耳に入ってこない。来客を待つときは車の近づく微かな音さえぱっとききつける、など)。知覚体験とは非恒常なものなのである。興味や注意の向け方の問題で、ただ自閉症児の場合、興味や注意の対象やその向け方が、私たちが普通はこうだと社会的に共有しているものと必ずしも合致しないので特異な現象に見えるだけだと考えられる。》
<1>より
知覚体験は、乳児からの果てしない学習を経ることによって、世界を「このように」構成することを可能とした。視覚も聴覚も、そして重力を調整する円庭覚も。知覚心理学によれば、生来の全盲だった人が、手術によって視覚を取り戻したとき、最初に目に入る光景は奥行きのないべったりとしたものと映った、と報告している。
あるいは補聴器は情報調整ができず、近い音を優先的に拾ってしまう、離れた位置から、間に別に会話をする人を挟んでの話し声はどうしても聞こえない、というのを聞いたこともある。滝川さんが書かれていることは、その通りである。その通りなのだが、私たちには聞き取れない飛行機の音に怯え、引きつった顔をして教室に走り戻る子。電動のカンナ、のこぎりなどの音にパニックを引き起こす子。
私にも苦手な音、不愉快になる声(誰の?—笑い—)はある。しかし、そのことと、彼らがなぜあそこまで激しい反応を見せるのか、その間がなかなか埋まらないのである。
3) 感情認知の問題
この問題は、いわゆる「高機能自閉症」と呼ばれる子によく見られるものである。知的理解力はあるが、他人の感情を理解できない、勝手に見当違いをする、というような。このことと表裏をなすのが、彼らの話すことに「含み」とか「冗談」とか「嫌味」というものがない、ということである。ある子に冗談を言ったところ、「先生、それは、冗談ですよね。冗談は笑わないといけないんですよね、ははは」と返された経験がある。むろん彼は大真面目である。
滝川さんのここでの説明は、
《3 私たちの感情や認知の表現は、純粋に生理的なものではなく社会的なものである。乳幼児期の養育者の感情表出の読み取りからはじまって、私たちはいつどんなときに怒り、悲しみ、喜び、またそれらが状況に応じてどんなふうな表現をとるかの複雑な綾を密接な対人交流を通じて学んでいかねばならない。発達早期からの対人交流の大きな遅れは、そのデリケートな綾の習熟を困難なものとするのである。》
<1>より
彼らは、決して相手の感情を感受しないのではない。ただ、そのようにして感受したものを、「心配しているとか怒っているとか」社会的・対人関係的な文脈において捉え直すための目に見えない文法微妙な綾(code)」の習熟が困難である、というのが滝川さんの理解である。
ある年の受け持ちの子に、次のような例があった。知的な面からいえば、単語の理解さえ難しい子だったが、わたしが「二日酔い」などで体調不良のときには顔を見たとたん敏感にキャッチし、ルンルン気分丸出しになる子がいた。ときには図に乗って?、つかつかとわたしのそばにより、顔や頭に、ふっ、と息を吹きかけたりするのである。おいおいとは思うものの、大きな声を出すと頭がガンガンするわたしは、ただただ苦笑するばかりであった。そして午後になり、こちらの体調が戻るにつれ、あれっという表情とともに、いつもの殊勝な彼に戻るのであった。
わたしは彼をいじめていたわけではない。普段から声が大きく、何かといえば無理難題を持ち出したり、ややアグレッシブなところのあるわたしに対し、彼は絶えず警戒し、アンテナを張っていたのである。
4) 不安やパニックの問題
《1 パニックなどに窺える自閉症児の強い不安や怯えは、人間関係論的な葛藤的不安と解釈するよりも、遅れをもつ子どもに通有の十分理解したり対処できない世界の中で生きているおぼつかなさや薄氷感(安全感の乏しさ)と考えられる。
2 ことに小児自閉症においては知覚したり体験する世界を社会的・文化的な共同性の相のもとに秩序づけて認知することが遅れるため、その体験野(知覚野)は不安定かつ直接的な感覚刺激に彩られた混乱的・不安惹起的な世界になりがちな可能性がある。一見、無頓着で気ままに振舞っているかに見えるときでも、私たちよりずっと不安の高い世界を生きていることを知っていたほうがよい。》
<1>より
わたしもそう思う。自閉症の子どもたちと接する大人は、最低限そのことを知って欲しいと心より願う。
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(佐藤幹夫 2001/12/05)
わたしの事例から(5)
佐藤 幹夫
滝川さんの見解を基に、わたしの体験を少し紹介したい。
彼らのこだわり行動に対して、人為的制止は、まず無効である。わたしはそのことを肝に命ずることから始めた、と言ってもよいと思う。わたしの受け持った子に、こんな例がある。
給食の歯磨きの後、そのままトイレに行き、おしっこを歯磨き用のコップに入れる、という行為にこだわった子がいた。どんなきっかけだったのかは分からない。おそらくたまたま歯磨きの後、コップを手にしてトイレに入り、そしてなんとなく手にしていたコップに・・・というのが、始まりだったのではないか。それ以外、理由らしきものは考えられないのである。
わたしはすぐに気がついたわけではなく、迂闊にもしばらくたってからで、すでにこだわりとして、定着してしまっていたときだった。
二度とさせないために、わたしはどうしたか。止めろと言って止めるほど簡単ではない。まず、そのコップを奪おうとし、掴み合いとなった。背丈はわたしとほぼ同じ。力も強く、寝転がせて上に乗っても、持ち上げられてしまう。トイレのなかで、10分ほどコップをよこせ、よこさない、を続け、やっと取り上げた。そして本人の目の前で、そのコップを足で踏み潰した。彼はむろん大パニックである。落ち着いたところで、トイレから出るのを許した。
落ち着いたところでと言っても、ただ手をこまねいて見ていたわけではない。彼の繰り出すパンチ、頭突き、噛み付き、蹴りをかわしながら、抱きかかえては振りほどかれ、また抱きかかえては振り切ら、をくり返していた。物を壊すな、叩くな、落ち着かなければ外には出られない、と伝えていたのである。コップを踏み潰したのは、「絶対にいけない」というわたしの強いメッセージであった。
翌日、コップは新しくなっている。歯磨きの後、わたしは彼をにらみ据えたまま、すぐに歯ブラシともどもコップを取り上げた。むろん、つかみかかってくるものと、臨戦態勢であった。少しぐずったが、あっさりとあきらめてくれて、事なきを得た。一週間は「監視?」を続けただろうか。一度やってしまうと、再び一からやり直しとなる。それを阻止したのであった。
彼のこだわりのほとんどは認めてきた。しかし上記のように、絶対にいけない、というものもあり、そんなときどうするか、はほとんど直感である。コップを目の前で踏み潰す、というのも、その場でとっさに思いついたことであった。むろん出たとこ勝負であるから、失敗に終わることもある。この対処が良かったのかどうかも、実は自信があるわけではない。彼とは三年の付き合いとなったが、成功率は、少しずつは増えていったかな、という程度である。
この子は「自閉の非常に強い子」で(と、いう表現をわたしたちはしていたが)、「こだわり行動」もたくさんあった。ここに紹介したのはその一つである。
その他、靴の紐を結べなくなるまで固結びしていく(結果、靴がすぐには履けなくなる)。シャツの胸元を噛む。容器の中味をすべて開けてしまう、衣服が濡れたらその場で脱ぐ・・・学校の中では何とか対応できても、校外では大変である。常に先回りを心がけ、まさに「知恵比べ」状態であった。
いうまでもなくわたしの仮説であるが、知覚の問題と、こだわりとパニックは、密に関連している。
彼にとって、何が新しい固着となるかは、むろん予期できない。因果関係を含めて(不潔である、靴が履けなくなる、シャツが着られなくなる、裸は恥ずかしいなど)「理解」を図ろうとしても、まず無理であった。わたしたちにできることは、学校生活に支障を及ぼさない「こだわり」を、まずは許容することだった。無理して制止するとパニックを引き起こす。パニックにならなくても、結局はいたちごっこに過ぎない。一つ消えても、すぐにまた別のものが現れるのである。
生活に支障をきたすものについては、そのような事態にならない環境をつくるようにすることで対処した。例えば食管のご飯や汁物は、あらかじめ残さず盛り付けてしまう(なくなるまで食べようとするのだから。お代わりを止めると、それでまた怒り出す)。靴の紐は固く蝶結びにして紐の間に潜らせる、それでもだめで、次は短く切っておく、などなど。「知恵比べ」といったのは、このことである。
そしてそれ以上に努めたことは、行事などが立て込んできて日課が不規則になるとき、混乱を起こさせないようにすることだった。日課が変わるときには事前に話しておいたり(言葉はよく理解できたので)、初めての事にはことばだけではなく写真を示したり、ということをくり返した。
当ホームページのために書き下ろし
(佐藤幹夫 2001/12/05)
終わりに(6)
佐藤 幹夫
これまで、相対性・連続性の中で理解を、と滝川さんの言葉を引きながらも、しかし、どうしても彼らの特異さを指摘する記述に終始したようである。そこに目がいくことが避けられないのである。
むろんわたしなりの理由がある。こちらの不用意な対応は彼らを不安にさせ、混乱させ、やがてパニックを引き起こさせてしまう。わたしはそのようなことを、限りなくくり返してきた。どうすればそれが避けられるか。そのことを知るためには、彼らの特異な症例を、できるだけよく把握しておく必要がある、そう感じているからである。パニックになって、彼らが楽しいわけはない。
わたしが今ひとつ自分でつかみきれていない、と感じているのは「知覚」の問題である。それ以外は、滝川自閉症論はたいへん納得のいくものである。
最後にもういちど滝川さんの言葉を引く。
《(カナーの翻訳者であり、自閉症研究の草分け的児童精神科医、十亀史郎氏の、最後の講演における次のような言葉、「自閉症児を特別なものとしてみるのを止めたとき、彼らがよく見えてくるということを最後にいっておく」を引いた後、)
自閉症児を特別なもの、なにか異常な病理ないし特殊な障害をもった存在としてではなく、普通の子どもとたちと連続性をもった存在として理解しようとしたとき(言い換えれば精神発達一般の過程のなかに位置づけて捉えようとしたとき)、はじめてその本質が見えてくるという意味だったと思います。(略)。十亀先生が私たちに遺された最後のことばに、これから歩むべき研究の方向が指し示されているにちがいありません。このことばの先に「新しい自閉症観」が開けてくることを願ってやみません。》
<3>より
当ホームページのために書き下ろし
(佐藤幹夫 2001/12/05)
